昨日とりあげた夢枕獏『腐りゆく天使』の舞台の骨格をなしているのは、大正3年9月3日の午後9時17分から翌日の零時33分まで。何でそんなに厳密に?
萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に、月蝕の晩に彼の恋する人妻と逢っていたと書いているそうだが、調べてみると(厳密には、調べてもらってみると)、上記の時刻であったとわかった。大正3年、室生犀星や北原白秋、高村幸太郎や宮沢賢治、芥川龍之介なども活躍していく時代だ。
そう考えていてふと、一つのことに気づいた。私の裡側では、いつも二つの年号が行き交い、棲み分けている、と。明治・大正や昭和の元号となるとわが身に刻まれた記憶が震える。西暦になると頭で理解した世界の流れが随伴する。その間の亀裂に気付いたのは高度経済成長がひと段落する1970年代の前半であったか。身に刻まれた記憶は元号と西暦の変換を(意識的に)ほどこさないと世界の流れに橋渡しできないようであった。
大正3年は、明治生まれの私の父や母が3歳、5歳のこと。そこへ私の思いをいたしてみると、父母の子どものころの存念が浮かび上がる。商家の長男に生まれた父、富農の三男を父に持ち、三女三男の次女に生まれた母。母の兄弟姉妹は幼くして亡くなってしまった。加えて父(私からいうと祖父)が早くに逝ってしまったがゆえに母(やはり私の祖母)独りの手で街暮らしとなったと後に知った。
大正3年は西暦で1914年。その7月にはヨーロッパで第一次世界大戦がはじまっていた。同じ7月に東京では、2年前に中華民国を成立させたのが袁世凱に乗っ取られた孫文が、中華革命党の結成大会を亡命先で行っている。世界史における日本は、一等国の波に乗ろうとイケイケの時代。大正時代というのは、日本の近代化が西欧の模倣から日本の独自性を育てていくときでもあった。そのように時代の感触を読み取るには、棲み分けている年号を重ね合わせていかねばならなかった。
父母の送った大正時代へ目を移すと、経済史的には農民層の分解と呼ばれる社会的な大変動の進行する時代であった。富農とはいえ、男の子のいない(私の祖父が亡くなってみると)三男の家族は農家を継ぐことはできなかったようだ。大正デモクラシー隆盛の空気を吸って育ったであろう母は、目前にした女学校への進学もかなわなくなり、和裁の針仕事で生計を立てるしかなかったことを愚痴るメモが残されていた。そうやって、時代相に重ね合わせるには元号の刻む感触を、西暦の進行プロセスと二重写しにすることによって、実感に持ち込むことができた。
それで思い出すのは、あがた森魚の「赤色エレジー」の歌詞。
「昭和四年は春も宵 桜吹雪けば情も舞う」
と、ずうっと私は思い込んで口ずさんできた。「四年」が「余年」であることは、つい今しがた「歌詞検索」して知った。
なぜ「四年」と思い込んでいたか。西暦にすると1929年。1923年の関東大震災からすでに6年、1926年には元号は昭和となり、1928年の張作霖爆殺事件で関東軍を前面にたてて軍部は、とどめようもなく勢いづいていた。1927年に金融恐慌があったとはいえ、秋にやってくる「昭和恐慌」を未だ知らず、国運を主導する勢力にとって気分的には、やはりイケイケの時代であったと、私の世界史感覚は受けとめている。ところが「赤色エレジー」は、まるでそういう世界の裏側に潜り込んで「お泪ちょうだいの物語」を謳うセンチメンタリズムに充たされている。私の元号感覚も、そうなのだと思う。クールに自分を観ようとすると、西暦に変換する。実はその齟齬にこそ、時代相をとらえる鍵があるようには思うが、未だそこまで踏み込んでいないと自らを振り返っている。
こうした元号と西暦の二重性が消えているのは、平成になってからだ。すでに平成としてわが身に刻む感懐は、ない。平成の始まった1999年の私は46歳。時代はバブルの最盛期。
時代相はたしかにイケイケであったが、グローバルの波に満ち溢れ、もはや元号に浸る気分は社会的に消え失せていた。だから保守層からは危機感が表明され、国旗国歌や元号使用も法的な拘束力を持たせなければ保持できないときに差し掛かっていたともいえよう。
こうして、私の身の裡の元号と西暦の二重性は解消されてしまった。それとともに身に刻む感覚と世界の時代相に身を位置づける感懐とが符節を合わせて捉えられるようになったか。そうでもあるし、そう一言で括るわけにもいかないという感触も残る。ただ「令和」で身が震えることは、まったくない。ときどき「令和」を忘れていることに気づいたこともあるほどだ。
その感触の一部分に、「腐りゆく天使」に書きこまれた「匂い」が関わっているように思えるのだが、それが何かは、わからないままである。
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