スマホの会社を切り替えたのに伴い光通信の会社も切り替えることにした。実はこの切り換えがどういう意味を持っているのか、とんと見当がつかない。結局、いまより月額1000円ほど安いというのが、決断の動機となり根拠となった。
その話を持ち掛けたのが先月末。一週間前に切り換えの技術的チェックに、若い調査人が訪れた。部屋の配線を調べるのに、1時間半くらいかかったろうか。今後は書斎の回線を使わず、リビングのTV回線をつかって光通信も電話も使えるようにするらしい。
二十年以上になろうか、何年前であるかもう忘れてしまったが、NTTでADSL通信がはじまったころに電話回線を切り替えた。モデムなども借りるようになったのだったか。そのときには、書斎の受け口の配線をいじり、それだけではすまず、ドアホンと兼用の電話が通じるようにリビングの壁に取り付けた電話機の配線も、何やら工事していた。
それが光回線に切り替わったときは、モデムの切り替えくらいで済んだ。だが、ときどきモデムが作動せず、よく見ると初期化されていたりして、その都度、どうして? と思ったものだった。停電などのときにモデムが初期化されることがわかり、接続をはじめからやり直すことがしばしばであった。あとで判明したのだが、同じ団地の同じ棟のどこかで光回線に切り替える工事のときに、一時的に通信回路を遮断する必要があって、その都度、既存の回線のモデムが初期化されるのだと思った。いまはそうした切断もない。工事方法が(たぶん)改良されたのだろう。
そうして昨日(12/12)、切替の工事が行われた。モデムも切り替わる。既存のWIFIもリビングにうつす。まだ二十代の若い工事人が1時間も遅刻してやってきて、果たして時間内に終わるかと心配させた。だが、2時間半かかると聞かされていた工事が1時間余で済んだ。この若い工事人は、終わりに「後で今日の工事のやり方とか工事者の説明や態度についてアンケートがあると思いますが、よろしくお願いします」と(遅刻したことを寛大にみてくれと頼むようなことを)言った。
電話回線は、NTTが切り替えを承認して「通知」が来てから、もう一度接続工事をする。その間の何日間かはドアホンの電話が使えなくなるという。まあ、もう一つ和室に同回線の電話があるから不都合はない。書斎の電話は、廃棄することにした。
ちょっと気になったのは、今日の工事で切替が可能になったのに、NTTの承認手続きをして切替工事をするのに2週間もかかるってことだ。どうして? 「わかりませんが……セールスの人に聞いてください」と工事人は我関せず。じつは事前にセールスの人にも訊ねていた。彼は「いつも、だいたいこれくらいかかりますね」と、そんなものですよと応えた。
通信技術の方は、ADSL以来ずいぶんと変わった。早くなっただけでなく、容量も多くなったし、装置の設置・開設が簡単になった。今回だって、切替工事でモデムが初期化されることはなかったのではなかろうか。だが、デジタル技術をつかうことのできる社会的な切り換えの方は、ずいぶんと遅れている。いやそう言っては、現況を精確に言当てていない。
デジタル社会の方は、カード決済とかスイカやパスモ、paypayなどと、現金をあつかわない方向へ舵を切っている。ところがお役所仕事の方は、未だそれに対応していないことが、露わになってきている。コロナウィルスに際しても、厚生労働省の地方自治体からの保健情報の集約などが、FAXという文書主義とか「未だ手作業」とからかわれるほどアナログ的であった。NTTもお役所仕事の面影を残しているのであろうか、切り換えを通知したから承認するうまでに、たっぷり時間がかかる。あるいは切り換えに不承不承であることを伝えるために、わざと遅らせているのであろうか。
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もう三十年前になるが、私が現場の学校にいた1991年に、学期末の成績を電算処理することを提案したときのことを思い出す。エクセルを使って成績入力してもらうと、各クラスごとの成績一覧表から各個人への成績通知表も出力できるようになる。
それまでは、各ホームルーム担任が各教科担任からもらうクラス別の「成績単票」を、「成績一覧表」に転記し、出欠席を加えてまずホームルーム別の「成績会議資料」を作成する。成績会議が終わると個人別の「成績通知表」に書き写して、期末ごとに保護者に通知するというものであった。期末の担任教師の忙しさは、ほぼその成績処理で埋め尽くされ、その間授業もあるのでは大変というわけで球技大会などを組み込んで、生徒は生徒で、試験後の解放感とともに行事に熱中していた。
その成績処理を電算化して、各教科担任が「成績単票」を作成し電算室で成績を入力することで、ホームルーム担任は「成績一覧表」も「成績会議資料」も個別の「成績通知表」も作成する業務から解放された。球技大会などへの関与もできたし、授業を行うこともできた。なにより試験実施から期末までの期間を短縮することができた。
しかしはじめて教務主任がそれを提起したときは、大騒ぎであった。
「なんだよ。キーボードが扱えないと教師が務まらないのかよ」
と毒づく教員がいた。
「手書きしてこそ一人一人の生徒の成績の浮き沈みがわかるってもの、こんな成績処理をしていたのでは教師には生徒が見えなくなってしまう」
と正論を振りかざして抵抗する人もいた。
まず半数ほどの教師が、キーボードに初めて触る状態であった。教務は、成績入力の部屋に担当者を置いて、入力の仕方を手ほどきする必要があった。それと同時に、「成績単票」の合計が間違っていることもかなりあることが分かってきた。それまでは各教科担任が「単票」に書きこんでホームルーム担任に提出する。ホームルーム担任はそれを「一覧表」に転記して、縦に教科ごと、横に個人別の成績合計を出す。その縦と横の総合計をしてみたとき、ぴっちり合わないと、どこかで記入ミスをしていることがわかる。もう一度、全部の単票と一覧表とを見比べて合計を計算する。ところが、もともと「単票」の合計自体が間違っていたりすることもあり、なんだ、転記ミスじゃなかったのかと教科担任のソコツを発見してクラス担任は苦笑いをする。そんなこともなくなった。
それから12年ほど同じ現場にいて私は退職したのだが、その間に成績入力に関する手順は行き渡り、常識化していた。18年前のことだ。だからお役所が未だにアナログ時代を過ごしていることに、ちょっとした驚きを覚えた。技術が進んでも、それが社会的に取り入れる手順は遅々として進んでいないことになる。韓国では現金での買い物がほぼなくなっているというのに、驚く。それほどにデジタル化が、社会的手順としても浸透しているのだ。
この「遅々たる社会的手順」が一概に悪いかどうかはひとまず置いても、お役所仕事が遅々として進まないのに、世の中のデジタル化が必要と力説する人たちが政府を率いているというのは、どこかおかしくないか。つまり政府のリーダーたちは仕事をすすめる「現場」をちっともみていない。机上の空論を振り回して切りまわしているから、上級官僚たちの絵空事がたちどころに「現場」で実施され得ることと勘違いして世の中をみているのだね。
おもえば、アナログ育ちの私たち後期高齢者が、デジタル社会に適応できなくておいてけぼりになっているのは致し方ないとしても、デジタルを扱う「現場」ではそういう人たちも、それなりに世の中の進み具合に適応できるようにサポート態勢を整えて、社会的に参入できるようにしていかねばならないし、実際そうしている。時間はかかるが、そういう手間暇をかけるごとに、私は手順を覚えていく。それができてこそ、コミュニティが多様性を保ちながら持続するのだといえる。今、その切り替わりの時代。落ちこぼれになりかけた後期高齢者として立ち会っていることを、なんとなくオモシロイと感じている。
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