2020年12月8日火曜日

訣れ

 先月から「喪中はがき」が届き始めた。嫁ぎ先の祖母・大姑の死、親の死、兄弟姉妹の死、連れ合いの死という若い知人や同世代の友人の訃報に混じって、旧友や知人本人の死の知らせが(親族から)届く。ほとんどが「コロナウィルス禍」をほのめかして、家族だけで葬儀を執り行ったと言葉を添えている。

 なかには、年賀の交換をする以上の付き合いというか、メールでやりとりしていた方の訃報を、年賀のやりとりをしていた友人への「喪中はがき」によって知るという回り道もあった。そうだよなあ、本人との付き合いであって家族ぐるみじゃないから、そういうこともあるよなあと彼や彼女との向き合い方を感じさせる。

 寒中見舞いにことよせて年明けにお悔やみを送るまでの間、喪中の人たちの心裡を想い起すたびに、私は「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と兄・宮沢賢治に願う病床のいもうと・とし子の言葉を思い起す。賢治はそれを、兄へのいたわりの言葉として聴き取っていたのではなかったか。

 旅の宿で傍らに寝ていた兄が身罷るほんの直前まで言葉を交わしていた私は、「喉が渇く」といった兄にお湯を用意したら「水の方がいい」というのが「あめゆじゅとてちてけんじゃ」(雨雪をとってきてちょうだい)と同じ意味合いだとは、そのとき思いもよらなかった。発熱していたとは思わなかったのだ。くしくも岩手・八幡平の宿であった。

 救急車を呼ぶのも「朝になってからでいいよ」と兄は言っていた。とし子のように、「Ora Orade Shitori egumo」とは言わなかった。兄自身、まさか死に直面しているとは思いもしなかったであろう。救急車で運び込まれた病院で急性心臓死と診断を受けた。

 喜寿とはいえ、日ごろテニスに興じ、山歩きに関心を示して槍ヶ岳にも登り、秋田駒ヶ岳と八幡平を経めぐっている途次。健康には人一倍気を使っていた。ジャーナリズム世界でもそれなりの位置を占めて最新刊書を出したばかり。それもあってか私は、兄が「ちょっと散歩に行ってくるよ」と出ていったきりという風に感じられ、亡くなったと思えなかった。

 そうであったから、とし子のように「うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる」という口ぶりとは無縁の時代であった。でも私にとっては「永訣の朝」。賢治がいもうと・とし子に寄せる思いが(兄・自分への)「いたわり」に響くように、喪中の方々の心裡にも響き届くことを祈らずにはいられない。

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