2020年12月20日日曜日

脳幹から紡ぎだされるオマージュ

 深い沼の底の泥濘からぷくりぷくりと湧き起る気泡がゆるゆると水中を上り、水面でポッと弾けて言葉になったようなモノローグが差し挟まれる、夢枕獏『腐りゆく天子』(文藝春秋、2000年)は面白い。モノローグの主は鎌倉の教会の裏手にある落ち葉の降り積もった雑木林の土の下に埋められた屍体。「俺を殺して埋めたのはだれだ?」とはじまる。わたしはだれ? なぜここにいるの? だれがうめたの? でも、こうしてものおもっているのはなんなの、とぷくりぷくりと浮かび来る自問自答をくり返す。まるで魂が自問自答するように。

 ミサを終えた教会の神父は香部屋に引きこもり天使と対面して、恍惚の時を過ごしつつやはり自問自答のごとき告白をする。

 それらを一つに結び合わすのは萩原朔太郎。人妻に恋し、前橋から鎌倉に足しげく通う。室生犀星や北原白秋へのはがきや手紙が彷徨える詩人・朔太郎の心裡を記し留める。これも、モノローグと言えばモノローグである。

 本書は夢枕獏が萩原朔太郎に捧げたオマージュである。オマージュhomageというフランス語は尊敬や敬意を表し、その人物に対する賛辞を呈するものと相場が決まっているが、夢枕獏はその言葉に顕れる形式主義的な気配にまるで頓着しない。詩人・萩原朔太郎の歌の心に深く分け入り、自らの感性が受けとめ得る限りの共感性を総動員して、心根の泥濘の底に足をつけて、ふつふつと湧き起る情念の泡を記しとめようと筆を執る。

 夢枕獏を読み取る私の胸中に、父と子と精霊とが起ちあがる。とすると、象徴的に神父は父となり、萩原朔太郎は子となり、土の下のモノローグは精霊となる。その三者が三位一体となって感じとれる泥濘には、人妻に恋し、天使に恍惚を感じる、脳幹より出でて脳幹にじかに響く言葉にならぬ情欲がある。まさしく身の裡に宿る具体的な実態である情欲が、抽象的な、朔太郎に言わせれば「心霊上の恐るべき犯罪」に直結して、「私は絶大なる恐怖と驚愕と羞恥と困惑との間に板挟みとなって煩悶」する。それを「天帝から刑罰されて居る」と見る地点で、精霊がそれとして姿を現す。おおよそキリスト教にいう三位一体とは様相を異にする、人の実存の三位がひとつになって感じとれる。それを掉尾を飾る室生犀星の萩原朔太郎に当てた手紙が言葉にする。


 しかし、萩原君。

 ああ、よく聴いてくれたまへ。

 萩原君。

 我々は、人ではないのだ。

 人でありながら、人のことを書きながら、人ではないのだ。

 この世に生きながら、霊魂となったのが我々なのだよ。

 たとへ、人である仮の身がどのやうな目にあはうが、詩人はいかほども、びくともすることがないのだ。

 どのやうな哀しみですら、詩人は耐へてしまふ。

 耐へることができる。

 耐へられぬ耐へられぬと、哭きながらだって耐へてしまふ。

 何があらうと、何ごとがあらうと、我らはびくともすることはない。

 それは、言葉を持ってゐるからだ。

(後略)


 オマージュというのは、詩人を飲み尽くし食い尽くしてわが身の裡に咀嚼してしまった後に吐き出される「ことば」である。それはすでに萩原朔太郎というよりも夢枕朔太郎の精霊が言葉を紡いでいる。

「ああ、何といふ傑作を書いてしまったのだらう」と、作者はヴィオロンのごときあとがきに記している。そう、まさにそう。何といふ傑作を読んでしまったのだらうと、溜息のごときしみじみとした実感をもったのでありました。

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