2018年1月12日金曜日

どこから来てどこへ行くのか


 千葉聡『歌うカタツムリ――進化とらせんの物語』(岩波書店、2017年)を読む。面白い。カタツムリの色と形のさまざまを取り上げて、進化がどう進んでいるかを「論理化」する試みが、ダーウィン以降、こんなにも世界に広く行われていたとは、思いもよらなかった。


 ダーウィンの進化論と言えば、自然選択。生きのびるのに最適な色や形に進化してくるというものだが、ハワイやポリネシアのカタツムリを調べてみると、自然淘汰に関係のない色や形がある。その多種多様性は、進化にとっては中立的ではないか(遺伝的浮動)と問題提起される。それに対する反論や反証が、別のカタツムリなどの考察から提起される。アメリカばかりか、ヨーロッパや日本からも参戦して、百数十年にわたって続けられている。

 本書は、それを通観している。すると、自然選択の主論客であった人が何年かののちには遺伝的浮動論に傾いている。あるいは、その逆の変わり様も紹介される。つまり、侃々諤々のやりとりと実証的な採集記録、実験的な実証、そのうちにメンデルの法則が発表され、遺伝子からのアプローチが加わる。その後にさらに急進展して、DNA解析による視点が追加される。捕食―被食の関係の新しい視点が導入されて、遺伝的浮動論者が自然選択に転ずるという展開は、弁証法的発展とみる人ならば言うかもしれない。そこへ化石研究などの古生物学が算入する。そのように年をふるにしたがって次元を変えて戦わされる論戦は、わが身がどこから来てどこへ行くのかを重ねて眺めているような面持ちにさせる。

 記述のなかでも繰り返し指摘されていることだが、自然選択の論者も、遺伝的浮動を否定はしていない。逆にまた、遺伝的浮動論者も自然選択による進化の事実を否定しているわけでもない。つまり、一方は他方の立論があるがゆえに、その反照として光彩を放っているといえる。反対せざるべからずというのが(立論の成立順序から言うと)遺伝的浮動論の成立事情だともいえる。だから、どれほどの割合でその双方を組み込むかに転じれば、論戦はかなり整理されるが、そんなことは証明できない。研究状況の推移によって、変動するからだ。どう見極めていいかわからないことが「立論」の筋道をあいまいにしてしまうし、そのあいまいさが採集した証拠の注目点の解析を崩してしまう。割り切らなければならないことが、他方に対する非難の口舌を激しくするのだ。と同時に、その激しい対立ゆえに、研究もまた、エネルギッシュに進められることとなったといえる。

 そこで思ったのだが、この自然選択と遺伝的浮動のやりとりは、言語学にいう「能動態ー受動態」のやりとりに似ている。能動態は主体的、受動態は非主体的という定式に対して言語哲学サイドから「中動態」があったと、提起されていることだ。つまり、自然選択と遺伝的浮動は、その現れが進化に貢献しているかどうかを争っているのだが、するかしないかという二者択一ではなく、進化に対して「中立」という主張をしているのが、じつは「遺伝的浮動」である。ところが、「中立」ということはすなわち、進化に貢献しないということを意味するとみて、自然選択派は非難攻撃するのであるが、「進化に貢献するかどうかはわからない」というのも、検証事象としては「中立」として現れるから、それを勘案すると、「中動態」のような位置づけをおいてもいいのではないかと、私は思った。つまり、ものごとに白黒つけて(つまり分節化して)論議を明快にしようという心情が、「中動態」を排除してしまっているのではないか。

 読んでいて行間に浮かんでくるのは、その研究者の人間観や社会観、世界観が、その人の立論ににじみ出ていると感じられたことだ。もちろん進化生物学という舞台の上では、世界観や人間観は問題にならないのだが、日本の研究者の立論の仕方の中に、集団的に過ごしてきた共同体の醸し出す心の習性が揺蕩っているように思えたのだ。私たちは、自らの思念に底流する「なにか」については、結局気づかないままに、所論を提起し、それを自分オリジナルだと信じてしまっているような気がする。じつは、すでに社会的というか、環境的に醸成されたものが、我が身の裡に結晶したに過ぎないことを、あたかも我が意思のように錯覚している、と。そう、フーコーの権力論と重なってくる。そもそも私たちが言葉を使って、我が感情を感覚し、意思を思索するはじまりの地点から、「わが身」のオリジナリティは環境の感性や思索の掌に生まれているのだ。

 でも、個人に体現される「論理」というのも、現代社会の生み出している独特の傾きだと言えなくもない。だがそれにしても、数多の研究者が「論戦の舞台」を通じて言葉を交わすうちに、個人に体現される「所産」を社会に還元しているといえる。つまり、その「舞台」を保ち続ける役割を果たす人がいることによって(それがまた、研究者たちに共有されることによって)「進化の研究」は人間社会の思索として保ち続けられるのだと言える。一人の人間の意思なんてたいしたことはないが、その振舞いはたいしたものでもあると思う。

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