2018年1月6日土曜日

名を残す? どっちだっていいじゃないか


 NHKのTVドラマ「風雲児たち」の録画しておいたのを観た。三谷幸喜脚本と知ったのは、全部が終わってから。いかにも彼らしい。『解体新書』の成立由来を軸につくった物語。 なぜ杉田玄白が前面に出て、前野良沢の名前が「解体新書」の著訳者として載っていなかったのかを軸に、言葉の橋渡しをするという翻訳のご苦労をコミカルに軽く描いて、面白い。


 何より一言、「障子も襖も、誰がつくったのかわからないが、広く使われている(だから名を残すとか残さないとかはどうってことではない)」と恬淡と(平賀源内が)語るセリフが、このドラマの主題をなしていると言っていいであろう。

 三谷幸喜は、半世紀前の福田善之を想い起させる。軽妙洒脱を旨として戯作し、それでいて一本、時代批評ともいうべきテーマを盛り込む。それは、人の生き方であったり、名声やお金にまつわる世間の評価であったりする。ドラマとか演劇というのは、言葉を道具として使いながら、それが人の心に食い込んでいく「仕掛け」を施して、観終わった後に何がしかの感懐を残す。(してやったり)とほくそ笑む戯作者の顔が浮かぶようだ。

 前述の「このドラマの主題」というのは(振り返ってみると)私の好みに合っている。むろん言うまでもなく、名を残すような業績が何もないから、「負け惜しみ」に聞こえるであろう。でもこのブログも「無冠」と称するほどの無名なありよう。つまり、私はただの庶民の一人にすぎませんという存在を(何もしていないくせに)誇らしく思っているのだ。それはどこかで、名を成す人に対する羨望ややっかみを裏返しにしているにすぎない、と批評されるかもしれない。そうだよねえ。名を成すことを志す人からすると、負け犬の遠吠えに聞こえってることは否定しない。でもそうじゃないんだね。わりと若くして、そういう達観を懐くに至ったと(振り返って)おもう。名声や金に執着することを(いやだねえ)と思っていた。下品とか品格がないというよりも、そういう世間的な価値観に執着するのがわからなかったと言った方が良いか。偉くなりたいとも思わなかったし、自分が何か名声を博するような業績を上げられるとも思わなかった。野心がないといえば言えるが、向上心もなかったようにおもう。つまり、頑張って自らの存在を刻印することを志すということが、そもそもなかった。

 なぜだろう。男ばかり兄弟五人の真ん中に育ったことが、何か関係があったろうか。旅などを商う呉服商の長男というおやじの出自や零落した大百姓の母親の出自がかかわっているとも思えない。刻苦勉励、それなりに出世をした長兄を羨んだこともない。自我が生まれるころの、貧しさや地方工業都市の露骨な階級や階層の人間関係への表出が影響したとも思えない。なぜかわからないが、出世や富裕ということよりも、暇が多くてらくちんな暮らし方に気持ちが傾いていた。日本文化の中に、そのような気風は(たしか)あったように思うが、それがどのように私に体現されてきたかは、今のところ謎だ。寝転んでTVドラマを観ながら、そんなことを考えていた。

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