2018年1月7日日曜日

天与のことごとに感謝を捧げる


 一年前のブログ掲載記事を、ブログ提供元が送ってくる。ちょうど一年前に何をしていたか、何を考えていたか(「日記」を読むような気分だが)わかる。じつはすっかり忘れているから、面白い。去年はまだ、息子一家がいたのだ。東照宮に寄って帰ったり、妹孫が中耳炎になって医者にいったりして、(親は)あたふたしている。爺婆はわりとクールにみながら付き合っている。


 そう考えてみると、妹孫も、ずいぶん大きくなった。昨日のことだが、息子の誕生祝に私からメールを送ったら、電話が来た。「お母さんも一緒に聞いてよ」と息子が言い、二人で受話器に耳をあてていると、少学3年生の妹孫がウクレレを弾きながら「ふるさと」を歌って聞かせてくれた。なかなか堂に入っている。「じょうずだねえ。いつ練習したの?」と婆とやり取りをしている。嫁さんの実家にいる間に腕を上げたようだ。6年生になる兄孫は、もう爺婆は卒業したようで、電話にも出ない。

 第一子の息子が49歳になるということは、私たちが父や母になって49年経つということでもある。長く父母をやって来たものだ。むろん今は、もう何の心配もしないで、自分たちのことだけ考えて暮らせばいいわけだが、体の弱かった息子のことを考えると、よくここまで来たものだと、感慨深い。ほんとうにいろいろな幸運に恵まれて生きてきたなあと、天与のことごとに篤い感謝を捧げたくなる。

 これは信仰心とは無関係なことではなかろうか。運否天賦とともに生きてきて、その天然自然のもたらした幸運に感謝するのであるから、キリスト教やイスラム教の絶対神に向き合って信仰するというのとは、異なる。私は、天然自然の中にいる。絶対神の信仰者は天然自然の外にいる神を信じている。

 まあ今日はここまでにする。そういう感慨に浸って、わが身とカミサンとが身体をそれほど大きく壊しもせず、動き回れる程度に健康に過ごしていることに感謝しつつ、松の内を終える。さて、明日から頑張るか。

0 件のコメント:

コメントを投稿