2018年1月28日日曜日
実務軽視と戦略重視の狭間にあること
昨日(1/27)は36会Seminar。今回で第30回。満五年が完了する。思えば古稀の歳にはじめて、隔月に開いてきた。会場になる大学の、定年後も研究仕事をボランティア的に続けてきた人がいたからではあるが、同時に、Seminarをやろうよと発案した新橋の商店主、自動車会社の開発部門に身を置いた技術者などの同窓生が気を合わせたから、ここまで続けることができた。
今回の講師は、その自動車をつくってきたmykさん。お題は「海外企業異文化の経験」。彼がかかわってきた海外の自動車会社、5カ国7社の、彼の関わってきた局面での「違和感」を拾い出し、そこに見える海外企業に身を置く人たちの気質、向き合い方を見極め、転じて、日本企業の、あるいは日本の人たちの特徴に言及して、問題点を取り出す。「今後いかに解決していくかが焦眉の急」ととりあえずの結論を述べて時間が来てしまった。
車に関しては最先端を走る国々の経営陣や、これから自国の車の開発をすすめようという途上国への研修支援と技術援助の様子に共通して感じた「違和感」は、「実務軽視」と「戦略思考重視」であったようだ。米国とドイツの自動車会社の経営幹部は、R&D(research & development)に関心がなく、製造コスト切り下げを考えろと提示するだけ。つまり(車をつくるという)実務的な過程に立ち入らないで、経営・販売戦略的な「工程」を描いて「(実務の)現場」に指示するという。これは、「現場からのたたき上げ」を大切と考える日本の職人気質に合わない。たとえば日本企業の将来経営に携わるような新人でも、「現場から」と言って製造の現場や販売の現場に「研修」に出されるというのは、よく聞く話だ。つまり「会社」を一つの有機体とみているから、その隅々まで配慮が行き届くことにこそ、会社を切り回すものの精髄があると、見ているというわけだ。
今も昔も同じかどうかはわからないが(もうずいぶん昔になる)、イギリスに進出した日本企業の経営トップが「社員食堂」で労働者と同じ食卓で食べるというのが「ニュース」になったことがあった。イギリスの経営者たちからすると、それはとんでもないこと(労働者たちに対しえ失礼だ)と受け止められたようだった。つまりイギリス人の階級意識からすると、経営者が社員食堂に立ち入るというのは(何か意図があってのことと)邪推を招くという論調であったか。
ここにはたぶん、社会そのもののが育んできている「平等意識/市民意識」ひいては「会社(をどうとらえるかという)意識」が根を降ろしている。これは逆に経営者からすると、「企業の戦略的なこと」は経営者が担当して考えること。だから「コスト削減」となったら、製造過程でこれこれ、販売過程でこれこれと「削減目標」を提示してやるのが経営者。具体的にどこをどう削ってそれを実現するかは、製造過程や販売過程を担当している人たちが考えて実施することであって、それに立ち入ってああしろこうしろと指図がましいことをするのは、越権行為だとでも考えているのかもしれない。日本人の持っている「平等意識/市民意識」、ひいては「会社(をどうとらえているかという)意識」は、企業の上部に位置しているものでも現場仕事に従事しているものでも変わらないと、日本人ならば思っているということだ。企業を一体とみている感覚と経営者と労働者とを毅然と峻別している人たちとでは、やることなすことが違って当たり前ともいえる。
mykさんは自己批評的な視点を外さないで「違和感」を話したから、一概にどちらがいいと決めつけるものとは明らかに異なっている。また私たちにとっても、国と地域が違えば、どうしてそういう違いが生じるのかわからない。私たち自身が「島国」で文化的に閉ざされてきていると言われてきたから、果たしてどちらが特殊なのかわからない。また同じドイツの企業でも、ずいぶんな違いがあったから、これもまた、お国柄の違いとしてみるわけにいかない点もある。今日、日本を見直そうというTV企画もずいぶんとあるし、日本人が、こんなところでこんなにも頑張っているとか、日本商品がこんなにも評判がいいという企画はあるが、それらはなんだか、自画自賛のような気配がして、あまり意味深いことだとは思えない。でもそうしたことを踏まえて、私たち自身を振り返る機会とするのは、意味多いことだと思う。時代と風土と気質と私たちの文化を、いいか悪いかは別として、特徴的に捉えるmykさんの視線こそが、彼のSeminarの提起していることではないかと、私は思った。
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