2018年1月4日木曜日

かたち(形象)を得る


 今回も旅の往き帰りに佐江衆一『北海道人――松浦武四郎』(講談社文庫、2002年。作品の最初の刊行は1999年)を読む。松浦武四郎の名前は最初、幕末のころにたくさんの山歩きをした人物として(何かの本を読んでいて)知った。と言って、登ったのか近くを通りかかって見ただけなのかわからない。登山記録はない。好奇心旺盛な探検家というのが最初のイメージであった。さらに蝦夷地と呼ばれていたころの北海道を何度も歩き、子細な地名を記した地図が残っている。出会ったアイヌの人物像をこれでもかというほど書き記している。記録魔ともいうほど絵と地図と文章に書き残した人物であり、「北海道」の名付け親として知った。まるで、のちの時代の南方熊楠のようにいろいろなことを手掛けている。地理学であり、博物学であり、アイヌの生活誌をアイヌ語とともに書き記した文化人類学であり、何よりも松前藩の支配や和人商人たちの強奪搾取ともいうべき悪辣なやり方に怒る言葉が迸り出ている正義漢であり、樺太や択捉まで足を延ばして探査する仕事までしている。しかも明治維新後には、北海道開拓の「お役」を受けていたりするから、役人にもなったのだと思っていた。出自が伊勢の武士の四男だと知って、去年お伊勢参りに行く前に、この人の伝記本を手に取りもした。要するに一つのイメージにおさまりきらない人物であった。


 佐江衆一のこの小説は、その松浦武四郎を生い立ちからはじめて上手に一つのイメージに掬い取り、この人の生涯と北海道を版図とする日本近代の歩みとその北辺におけるのちの挫折とをしっかりとつかませる物語りに仕上げている。松浦武四郎がかたち(形象)を得て、私の腑に落ちる。それがいいのかどうかは、わからない。一つのかたちにするというのは。、その箱に納めてしまう力技でもある当然、枝葉は切り落とされたであろうし、別のかたちにしか納まらない部分を見失っているかもしれない。だから、佐江衆一の松浦武四郎像が現前したことで、私の混沌のイメージが形を得たともいえる。情けないが、そのようにして、つまり私の理解のツボにおさまるように松浦像が出来上がったというわけ。もちろん物語りにするために些末なことにこだわれないであろうが、読者は行間に揺蕩う身体作法に思いを及ぼすことができる。伊勢から九州長崎へ歩く、長崎から四国、北陸から信濃と歩き回って、江戸へ入り、さらに足を延ばして津軽から江戸地へ抜ける足取りと、その間の食べ物や着物、金子や宿をどうしたのであろうと推察する。篆刻の技術というのも、はじめて知った。それだけで、日本列島一筆書きの様相が浮かび上がり、頭が上がらない。

 この身体作法だけで、もう、私たちの山歩きなぞゴミのようなもの。敵わない。時代へのイメージも佐江衆一流にかたちを成し、私の内部で変わる。こんなに自在に動けたのか。修験僧の格好が通行手形であったというのもあろうが、人との交通が知人から知人への紹介状というネットワークをたどるのも、興味深い。こうして当時の人たちは、知友による「社会」を構成し、その外部の「他人」との峻別をしていたのだと、儀礼のありようにまで思い及ぶ。

 今と変わらない部分と、明らかに近代技術に頼り切ることによって失われている「かんけい」を身に痛く感じる。面白かった。

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