2018年1月8日月曜日
我感ず、ゆえに我あり
西加奈子『i』(ポプラ社、2016年)を読む。刊行されてから一年と一カ月経って手元に届いた。表題の「i」というのは、虚数の「i」――「存在しない」と表現されてはじまる。途中で大学院数学科の人たちが「何を素人みたいなことを言ってるんだ。ゼロだって印度で発見されるまでは存在しなかったが、発見されてからは存在しているんだ」と反駁する。主人公の名は「アイ」、裕福なアメリカ人と日本人の夫婦の養子。シリア難民の子どもが、もらわれてきた。「この世界に、アイは存在しない」とイメージが重ねられる。戦火のさなかにおかれている記憶にない生まれ故郷と裕福な環境の中で恵まれて育っている「アイ」との落差。つまり、わが身に世界の落差が埋め込まれている主人公の心裡の不確定さを「i」は象徴し、「わたし」って何? と問うている作品のように思える。陽子という主人公のおかれたありようも、血のつながりをどうとらえるのか、それにどれほどの意味をみることができるのか、問い続ける主人公の胸中が描き出される。体に埋め込まれた世界の落差をどれほど体現しているかと問う主人公の自問自答は、ほとんど表現としても空転しつづける。
空転するのは、「わたし」を思索によって追跡するからだと、読ませる。現実的な行為が伴わないのに、苛立つ。3・11のあとの原発反対デモにも入れ込めない。でもユウを見つける。ユウはしかし反響版に過ぎないと、私には思えるが、アイにとっては(わが身の)全てになる。この辺が、女性性なのかなと思ったりする。血のつながりにしても、わが子という「つながり」を求める。育ての親の持つ規範性をどの程度算入しているのか、わからない。私ならばまず、「アイ」があるとは思わない。育ての親や「ユウ」との関係や女友だちとの関係、あるいは名前も知らない私を取り巻いていた人々との関係が「わたし」をつくると、私は思う。だが作家、西は「アイ」がまずあると措定する。
西のイメージでは、女性性は海にあるようだ。海に身を浸すことによって、「この世界に、アイは存在する」と確信を得る。それは、私を全面的に受け止めてくれる「友人」を見出すことでもある。(たぶん)そのあたりが私には、すぐに理解できないことなのかもしれない。海に身を浸すことが「ひとり」で生きていることの実感につながっているとは思えない。男である私が(と言っていいのかどうかわからないのだが)、人とのつながりに(確信)を持つに至ったのは、「わたしは独り」と達観してからであった。性の違いとは思えないのは、作家・宮下奈都の作品を読んでいるからだが、宮下はしかし考えてみると、哲学科を出ている。出ているから勉強していると思い込むのではないが、彼女の作風は、哲学しているという気配を湛えて「わたし」を描き出そうとしている。私はそれを、とても好感をもって読み取った。それに比すると、西加奈子の、この作品は、違和感があちこちに残る。物語の運びに、じねん的と馴染まない箇所を感じる。むろん小説は、そのようなところがターニングポイントとなって「展開」するのだが、この作品では、その違和感を介して展開しているわけではない。
その違和感を抱えたまま、最後まで読み終えた。西が提示しているのは「我感ず、ゆえに我あり」だと思う。カントの向こうを張っているのかどうかは知らないが、「我思う、ゆえに我あり」という「思う」よりも「感じる」ことに実存の基点を確信した気配を描き出している。それはそうなのだが、本源的に人は、共感的に「感じる」わけではないと、私はついつい思ってしまうのだ。「思う」とき人は、他者を意識する。「感じる」とき人は共感の世界に抱かれた隣人を感じとっている。この違いなのかなあ。
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