2018年1月5日金曜日

問題は「談合体質」


 今日(1/4)のTVは、相撲協会の貴乃花理事の解任問題で騒いでいる。池の坊なんとかという評議会の議長は「膿を出しき
って」と話しているが、見当違いだなあと私は思った。

 今回の11月以来の報道をみていると、貴乃花理事は(たぶん)言葉にならないから沈黙を通しているのであろうと、私は思って来た。近代組織の論理を重んじる人からは「相撲協会に協力しなかったのだから(処分は当然)」と断じているが、私はそうは思わない。なぜか。

 (たぶん)貴乃花理事が問題にしたいのは、相撲世界の「談合体質」ではないかと思う。つまり、暴力事件があったが、相撲協会が事情聴取をすれば、間違いなく穏便にコトを収めようとする力が働く。貴ノ岩が事情聴取に応じ、相撲協会の事情聴取において「示談」を提示されたりすると断ることなどできるはずもない。危機管理委員会に置いても同じといっていいであろう。だから(そう考える)貴乃花理事は(事情聴取を断ってきた)と私は思っている。だがそれを、どう言えば、世間様に真っ当に受け止めてもらえるであろうか。私でさえ、どういっていいか考えこんでしまう。

 いうまでもなく「談合体質」は日本のお家芸である。つまり私たちの体に染みついた体質と言ってもいい。だからTVのインタビューもコメンテーターのことばも、「暴力体質」とか「かわいがり」をという訓練指導との峻別に議論が集まり、「談合体質」に言い及ばない。貴乃花親方の振る舞いが理解できないのだ。貴乃花親方は世間全体を敵に回したのであった。

 その「談合体質」に触れえないから、(メディアも)相撲評議会も「膿を出し切った」などと見当違いのコメントを加えているといえる。直截に言えば、貴乃花親方が問題にしたいのは、この組織全体がもっている「体質」なのだ。それは、日本の社会がもっている「体質」でもある。相撲協議会もメディアもその論点に触れることができないのは、自身の「体質」がまさにそのものだからであろう。

 暴力事件の加害者と被害者という対立構図で考えている限り、「処分」のバランスしか問題にならない。加害者側は(名誉ある)(役職)「辞退」を選んだのに、貴乃花親方は「解任」となったのは不公平ではないか、と。だがそんな問題ではない。相撲評議会が(なぜ貴乃花理事は頑なに相撲協会に協力することを拒んだのか)ということに、一顧だに与えなかった、そのことにある。彼ら協議会委員には、「問題」が見えなかったのである。なぜなら、彼ら自身が、貴乃花親方の告発したいと(考えともなく思っている)問題が、まったく見えないからだ。それは彼ら自身の(そして私自身の)「体質」でもあるからである。いや、それだけではない。TVが新橋でインタビューするサラリーマンの所属する企業がもっている気質もそれだからである。

 私たち(日本社会)の体質は、グループに所属することから発想しているのではないか。だから「談合体質」というのを「意識」できない。異質な他者を意識できない。勝負の世界というのは(究極においては)、異質な他者と対決する意志を規定に置くものであろう。だが貴乃花親方の考えている「談合体質」というのも(たぶん)それほど過激なものではあるまい、と私は考えている。せいぜい、取組において「星の貸し借り」をしない程度の、厳しい対決姿勢という程度であろう。組織それ自体の、おおきな「談合体質」まで俎上に上げているとは思えない。まだ言葉になっていないのだろう。だが今回の「仕打ち」によって、その次元のそれも意識しはじめたかもしれない。そう思うと、「試練」はきつくても、お前を鍛えるものぞと励ましたくなる。ごめんね(貴乃花親方)、言いたいことだけ言って。他人事なのだけど。

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