2018年1月30日火曜日
そうか、自然に帰れ! か
昨日の最後に「教えてよ、イワナミ映画さん」と記した。今朝夜明けにそれが夢の中に甦り、ひとつ思い浮かんだことがあった。
映画『女の一生』の主人公の立ち位置は、ナイーブな女だったのか。伯爵家出身の世間知らずの女というのではなく、純朴で疑うことを知らない、まっすぐに生きる女という意味を読み取っていたのかもしれない。日本にいる私などからすると、カトリック的制約がないというだけでも、さらに枠を外した「まっすぐに生きる」と言うありかたを想いうかべてしまう。とすると、ヴェネツィア映画祭批評家連盟賞の選考委員たちも、そう読み取ったのか。
もう少し深読みすると、近代の果てにある現代社会の流れに翻弄されて、人は「動物化」しつつある。ナイーブというのはそれを象徴する。映像のなかで何度も出てくる、畑を耕す、作物を育てるというのが、その象徴的表現だ。その果てに「絶望的になっている」主人公に対して(孫娘を連れてきて)「人生ってそう悪いモノじゃないでしょ」と(無一文になった主人公に)告げるのは、未来に残るかすかな「希望」だというのか。
つまり言葉を変えて言うと、ヨーロッパの人たちが、自然に帰れ! と謂ったルソーの再発見をしているということか。イワナミ映画の上映作品選んでいる人たちも、西欧的教養にまみれ(日本の伝統的継承文化を忘れ)て「再発見」し、啓蒙的に喧伝しているつもりなのかもしれない。
物語の読み取り方には二通りあると、國分功一郎がハーマン・メルヴィル『ビリー・バッド』を取り上げて、バーバラ・ジョンソンの評論を紹介していた。ジョンソンは、ビリーの立場でこの小説を読むのとクラッガートの立場で読むのとを対立させて、その双方が成立する、しかし両立することはない、《つまり、どちらかが正しいということはできない》と解析している。
(1)ビリーの立場というのは《何ごとをも素直に、字義通りに、額面通りに受け取る。……メルヴィルが晩年に「神」や「宿命」を受け容れたことの証として読む「受納」派の読解に対応する》形而上学的読解。
(2)《それに対し、この小説はこの世に対する抵抗であり、メルヴィルはビリーの悲劇を社会に対する一つの皮肉として描いたのだとする読解》をクラッガートの立場として提出する、精神分析的読解。
國分の紹介は、それを発端にして、じつは、双方を同じ舞台に乗せて考えるシチュエーションがあると提示するところにある。それが「中動態の世界」なのだが、いまそこには踏み込まない(ちょっと借用するだけ)。ヴェネツィア映画祭批評家連盟賞の選考をする人たちだから、上記の(1)と(2)とを踏まえて、この映画に賞を与えたのであろう。それに追随して(だろうと思うが)イワナミ映画さんが上映することにしたのであろう。
でも、もうそういう「自然」のとらえ方の時代ではなくなっているよ、と國分功一郎は提示している。詳しくは『中動態の世界』(医学書院、2017年)の終わりの方を参照していただきたい。「孫娘」が「希望」という、まるでパンドラのほこに残された唯一の宝物のように提示されると、まったくの先祖返りに思えてしまう。悪いと言っているのではない。ならば、ヨーロッパのひとたちは絶対神のことまでふくめて、ひっくり返してから、論じ始めなさいよと思ってしまう。國分功一郎は、そうはいわない。つまり私たちは、勝手に起点を決めてそこから人生や世界をはじめることなどできないと、「自由意志」を見切っている。それが中動態の世界なのだ。
彼の言葉を借りるまでもない。私が常々、このブログで言い立ててきたことは、そういう中動態の世界であった。「いい」とか「わるい」とかいう前に、わが胸に手を当てて考えてごらん。「わたし」自体が、生命体35億年の進化を宿し、ホモ・サピエンス10万年の歩みに扶けられ、縄文のころからの列島民衆の文化的形象を受け継いできた「形象存在」にすぎない。ことばがそうであるように、感性も概念も思索も、ことごとく「わたし」のものは「みな」のもの。「わたし」は文化・環境の形成した存在。そのわずかの(かどうかはわからないが、DNAの違いも含めて)違いが、この顔とこの暮らし方と子の振る舞いの違いになっているに過ぎない。
まあ、今朝ほどそんなことを床の中で夢見ながら、起きだしたのであった。あらためて、おはようございます。
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