2018年4月13日金曜日
里山としての宮部みゆき――愛の喜び、愛の苦しみ
昨日(4/12)は「ささらほうさら」の月例会。今月の講師はnkjさん、テーマは「宮部みゆきの『世界』」。じつはこのテーマで、1月の合宿で講師を務められるように準備をしていた。講師予定のまだ現役のkrさんがひょっとしたら参加できない、そのときはよろしくと頼まれて用意していたのだった。krさんが参加できたこともあったが、nkjさん自身が合宿直前に腰痛と脚のしびれで立ち歩けなくなり緊急に入院、椎間板ヘルニアの手術となった。長い療養の末、3月末に退院、今月の講師で4ヶ月ぶりに用意のテーマをこなした次第。
nkjさんはむかしからの宮部みゆきファン。全作品を読むだけでなく、繰り返し読む。今回は現代ものに絞って「世界」を解き明かして見せようという。「宮部の作品全体に流れているのは『愛』と『共同体』の問題」とみる。nkjさん自身が宮部の作品を繰り返し読むのは「作品のなかにいつまでもとどまっていたいと思うからではないか」と、まず自己分析をする。そして、宮部の語り口のうまさが彼を誘い込むのだと、ストーリー・テラーとしての宮部を位置づける。これは小説の著作者としては最上級の称賛ではないか。彼のような読者をもって宮部は幸せだなあと思いながら、話しを聞く。
私はそういう良質の読者ではない。読みはじめたらできるだけ早く読み終わ(って次の仕事に取りかか)りたいと思うかのように、読む。面倒は早く片付けるという主義というか、通過することが目的であるかのように。まるで山歩きのように、本を読む。ピークを踏破したいというピークハンターのような読み方だ。この作家の「テーマ」は何か、それにどう向き合っているか。人間をどう描いているか、世界をどうとらえているか。断片ならば、どう世界に位置づけて、どの角度から切り取っているか。なんとも忙しない読み方である。私のような読み方をすると、結局のところ、私の関心の世界に引き入れて、そこと触れている箇所だけを勝手に読み取り、そこに触れる作家の断片だけと言葉を交わすような所業になる。読み取りの目が狭められ、自身の関心以外の領野のことごとに触れることなく通り過ぎてしまう。それでは「せかい」は広がらないではないか。
その作品世界に浸っていたい、いつまでもとどまっていたいとは、まるで自分の里山を歩き、繰り返し、いろいろなルートを経めぐり、さまざまに味わい尽くそうとでもいうかのようではないか。ということは、「愛と共同体の問題」という切りとり方も、まあ、(講師を務める都合上)言ってみただけ、という風情である。でも浸り方は浮かび上がる。
「ソロモンの偽証」の「大人の忠告に耳を貸さず、自分の考えた通りに突き進む…若者」に目を止めて《中学生にしては空虚で、生きる意味が見つからないと言いながらも、他者を迫害する人物》についての(どこか別の場所で話したのであろう)宮部の次のことばをとりだしている。
《この柏木という子は、わりと現代人の普遍的な心性を持っている気がします。10代のうちって、自分の人生をドラマチックに考えたいものでしょう。恵まれた家庭に育って、お父さんもお母さんも優しく幸せなのに、でもそれじゃ平凡でいやだと考える。困難を乗り越えて頑張っている友人をみると、すごく羨ましくて、どうしようもなく腹が立って「こいつ、つぶしてやりたい」と思っています。そういう、すごくストレートなティーンエイジャーの悪意なんですよ。でもその悪意がしでかしたことをほぐすためには、これだけの手間がかかってしまうんだ、ということを、この小説で書くべきなんだろうなと思いました》
nkjさんがとりだす「愛の問題」というのは、この柏木の悪意のような「人間の本性/さが」のことなのだ。そうして「共同体の問題」というのは、「人間の本性」が「かんけい」のなかにおいて発現し、それを(出来した偶然の断片というのではなしに、「かんけい」に位置づけて)描き出すためには「これだけの手間がかかってしまう」=人と人との関係性にまみれているという「世界」を宮部が見てとっていると(nkjさんは感じているよと)読み取っているのだ。作品に浸るというのは、その作家が掛けた手間に見合うだけの読み取る手間暇をかけなければならないと、nkjさんは伝えているのかもしれない。作家が何ヶ月もかけて構想し、書き落とし、仕上げた作品を、ほんの一日か二日で読み終わって次に移っていく私のような読者は、まさに行間に漂う「共同性」に浸る暇もなく、ひいては人がどうしようもなく出くわしてしまう「愛の問題」にも心底出会うこともなく、通り過ぎているような気がする。
逆に言うと、宮部という作家は、それだけの手間暇をかけて、「共同体」のなかを生き渡る人間(の本性)を(世界に)位置づけてみてとる視野と視力をもっているということでもある。その視野と視力は読者である私たちの現実世界と深く、緊密に触れあっていなくては作品に生きてこない。むろん素材としてのいろんな社会的出来事にアップツーデートに絡むこともあるかもしれないが、それ以上に、私たちの日常の暮らしの中で出逢っていることごとの根柢に触れてこそ、読者の心を震わせるリアリティが醸し出される。それが「愛の問題」とされる「人間の本性/さが」なのだ。宮部という作家は、自らの人間としての本性に降り立ったうえに、現実世界に生きる人物を仮構して出来事に遭遇させ、そこに(本性を)託して自在に振る舞わせ、表出してくる「事件」を拾いとって物語にして語りはじめる。私たち読者はじつは、宮部の世界がどうであるのか、読み終わるまでわからない。いや実感からすると、読み終わっても、わからない。
作家の描く作品世界の地平線が見えることがある。読み取ったときの「テーマ」と「作品世界の地平線」とが見合っているときには、「いい作品だった」という読後感が印象深い。作家の設えた「世界」が、地平線どころか映画のセットほどにも届かない人工空間であるときには(たとえ描かれている人物が魅力的であっても)、読みすすめるのを途中で投げ出してしまう。ところが宮部の作品は、地平線が見えない。いや、たしかに地平線を見たと思ってはいても、ひとつのピークに辿りついてみると、さらにその向こうに新しいピークが見える。そこから見える地平線がこの作品世界のそれだと思っても、もう一度読み返してみると、別の地平線があるというふうに、読み取りの浅薄さが浮き彫りになり、作品の奥行きの果て無さが続いているように思える。その感触が、分節できないがゆえに奥ゆかしく、そのつかみどころのあいまいさが、なんとも言えず愉しい。
nkjさんの話を聞いていたkwrさんは「宮部の作品は、ときに、読みすすめるのがクルシクなったり、コワクなることがある」と述懐していた。それも一つの(作品への)浸り方だと私は思った。宮部の人間世界(の洞察)に共振する心象が強く、わが身を呈して読んでいるように感じられるのであろう。これもすごい読み方である。私は、そこまで(わが身を)入れ込んでいない。と同時に、宮部の作品がそのような共振を引き起こすほどに強烈な「世界感知」を持っていることは、なんとなくわかる気がする。これは(わが身の)世界の深まりというか、広がりをもたらしているのではないか。
ここまででnkjさんの用意したプリントの1/13ちょっとが終わったところである。nkjさんの話はつづく。気が向いたら、その続きのところに踏み込んでみよう。
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