2018年4月19日木曜日
敵もさるもの
ハナミズキが散っている。フジが咲いていると思ったら、これも散りはじめた。何度も感じてそう書いてきたが、今年はずいぶん季節の進行が早い。晴雨の変化もきっぱりしている。気温の寒暖差も、けっこう大きい。冬物を仕舞って失敗と思わせて、翌日は夏日だったりする。こういうことも、温暖化と言えるのかどうかはわからないが、温帯から亜熱帯への緩やかな移行とすると、(気候変動という)敵もさるもの、人が馴染むのを見越して、もてあそんでいるように思える。
雨上がりの街は気持ちがいい。どうして? と考えていて気づいた。花粉が飛んでないのだ。鼻も目もぐずぐずしない。春先には、ひょっとして白内障になったのかと思うほど、世の中が霞んでみえた。それが、文字通り洗い流されたようにくっきりとしている。でも今日は、あっぱれな晴天。目もくしゅくしゅして、鼻水もぐずぐずと頻繁に拭かなければならない。
朝から出かけた。六本木の国立新美術館。私の古い知人が、版画を彫って春陽会という美術展に「合格」したという。国立の新美術館ははじめて。乃木坂の駅の上を這い出るようにして直に美術館に入る。広い。奥行きもずいぶんとある。一階の展示は有料らしく、チケットを買う人、中へ入ろうと並ぶ人で、行列ができている。訊くと春陽会は二階だという。二階の展示場は入口でチケットを販売している。私はその知人から「70歳以上無料」と聞いていたから、入口でそのことを口にすると、「はいどうぞ」という。すると、私の前に入った人が振り返って、「えっ、そうなの? 私は75なんだけど」と言って、直前に支払った入場料を戻してもらう話をしている。
ところが、ものすごく多い展示のどこを見ても、私の知人の作品がない。「一覧表」にも苗字は同じ人が二人いるが、下の名前が違う。う~ん、どこなんだろうと出口の受付の子に聞く。「ああ、版画は三階です」と返ってくる。そういう案内はどこでしているのだろう。三階に行くと「水墨画書道展」の看板があり、「春陽会」の会場もあった。入口にまた別の「一覧表」があり、これには、たしかに知人の名前が掲載されている。やはりものすごい数の出品があって、一つひとつゆっくり見る時間が無くなってしまったが、ほほう、これが版画かと思うほど手が込み、色合いも描画も直に描いたのではないかと思わせるほど細密にしっかりと仕上げられている。
彼の作品は、さすが大学の芸術学科で美術を専攻した人の作品だ。仕事は車のデザインをしていたと言っていたか。だから、版画を彫るというのは、たぶん彼にとっては、リタイア後の暇つぶしなのであろう。でも上等な暇つぶしだ。少々の金をかけても、惜しくない。もしこの作品だけを見ていたら、ひょっとすると余技以上での業で注文も入るのではないかと思わせないでもないが、展示されている数多の作品を見ると、世の中にはスゴ技の人たちがこんなにいるんだと思わせる。大衆と言っていいのかどうかはばかられるが、日本の大衆の芸術的民度も、たいしたものだと言わざるを得ない。
先日、院展の作品を観て感懐を述べたが、なんだか昔ながらの「権威」を背負った院展よりも、全国展開しているらしい春陽会という組織の大衆芸術が、かぶっている衣装の軽さに反比例して、層が厚く、腕にも磨きがかかっているように思えた。前者は、なんとなく余裕の構え、後者は懸命に創作しているという気配。どちらがどうということは、傍目には言えないが、判官びいき、額に汗している方を応援したいという心持になった。でも国立新美術館だ。いわば一流の人たちの舞台であることは間違いない。
そのあと、有楽町へ行って亡くなった大学時代の同期生の追悼をして献杯したのだが、その話はまた、別の機会があったら書き記すことにしましょう。明日から私は、吐噶喇列島の平島へ行く。一週間たぶん、音信不通になる。このブログも、したがってお休みします。ではでは、ごきげんよう。
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