2018年4月30日月曜日

「軽々と」が「やっと」


 いま毎朝、TV体操をしている。去年の10月までは毎日カミサンがTV体操をしていたが、私はパソコンの前に座って、フンという顔をして書き物をしていた。ところが昨年の9月、「化石化」で左腕が上がらなくなり、その後、リハビリをすすめられてから、朝の体操をすることになった。それから7カ月、何とか左腕も上がるし、回せるようになった。


 片腕を静かに上にあげるだけのことが、耳から後まで行かない。まして反らせることなど、とんでもない。「少し反動をつけましょう」と言って、二度ほど軽く後ろへもっていき、前へ大きく回して下へ降ろし、腰の後ろへぶらんぶらんさせる。これが、二度もやるとしんどいと感じる。おいおい、いつから俺の身体はこうなっちゃてんだと、いまさらながら加齢による体の固まり方に、驚いている。

 ラジオ体操もそうだ。ピョンピョン飛び上がるのが、できていない。飛び上がるというよりは、背伸びしているような格好だ。つまり爪先が床からほとんど上がっていない。降りるときの衝撃を和らげることがムツカシイのか、高く飛びあがれないのだ。むかしは手の振り方ひとつとっても、(体操をしている)ほかの方々をみて、ずいぶん手抜きしていると思ったものだ。伸びるところが伸びてない。かがむところもおざなりだ。膝が曲がっていて、これでは体操しているのだか、体操をするふりをして付き合っているだけなのかわからないじゃないかと思ったものだ。体操というのは、一つひとつの動作にどこの何を伸ばし、どこの何を縮めているという「意味」が込められている。それを適当にやっているのは、ほとんど無意味と考えてもいた。その頃、当然ながら、ラジオ体操は運動にもならない軽いウォーミングアップと思ったものだ。まして、TV体操でやっている「右手をゆっくり上に上げてぇ」というのは、バカにすんじゃないよと(そんなことやってこともないから)思ったに違いない。

 ところがその動作一つひとつが、いま、私の身に堪える。伸ばすところが伸ばせない。ようやく伸びたと思っても、耳の後ろに行かない。化石化の現場であった左肩などはまっすぐ伸びているかも心もとない。耳まで届かないのだ。つまり、昔の「軽々と」がいまは必死でやって「やっと」の思い。なんともだらしないが、これが私の身体の現実である。

 TVの画面に登場するインストラクターの女の子の動きは(体育大学の学生さんたちだそうだが)、ほんとうに見ているだけですばらしいと思う。何を見てんのよ! と叱られるかもしれないが、プロポーションもいい。カミサンは、どうして若い男のインストラクターも登場させないのだろうというし、今日などは、いろいろな年齢の人たちをインストラクターにすればいいのにと、余計なことを言う。婆さんや爺さんが、上がらない腕をよろよろともちあげ、つま先立ちもできない背伸びをしても、「お手本」にはならない。真似ようという気がなくなればまだしも、何とか曲げ伸ばしを「きちんと」しようとしているうちは(その結果、伸びているかどうかは別として)、やはりきちんとしている「お手本」に登場してもらいたいと思う。4月の終わりに、そんなことを考えている。

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