2018年4月16日月曜日
侘しさと人生
先日、逝去した大学時代のサークル仲間Sの弔問に行った。前後2年同期の6人。上野駅の不忍口に集まって、奥様の住むマンションを訪ねる。土曜日とあって上野は大変な人出。人にぶつかりながら歩く。上野広小路側から回り込んで池の西側に向かう。公園の賑わいも休日のそれだ。公園の道路を挟んだ向かいに建設中のタワーマンションもある。すでに20階ほどが出来上がり、その上にクレーンが首を伸ばしている。横山大観の記念館がある。そのすぐそばのマンションだが、入口には受付があり、来訪のアポなしには入れない仕掛けになっている。
エレベータであがると、出口の正面にSの居宅があり、奥方が出迎えてくれた。居宅全体の広さはわからないが、入口から続く廊下の左に台所などのユーティリティがあり、細長くつづいた廊下の正面にリビングがある。右側の壁に寄せて祭壇がしつらえられ写真のSが鎮座している。5年前逢ったときに比べて顔が若い。「4、50歳ころの写真です」と奥方は言う。ときいて、そうだ、彼は老け顔であったと思う。若いころから寡黙。皆の話を聞いて笑うときも、ふふふとひそやかであった。求められれば話はするが、ぼそぼそと聞こえるか聞こえないかという声で感懐を語る。学生の頃、寡黙であることを深く思索していると(私が)思っていたのは彼の姿をみていたからであったかと、振り返ったほどである。
東に開けた窓の眼下には不忍池がまるで庭のように見える。上野動物園と寛永寺の森が背景を受け持って、素敵な借景をなして、明るい。細長い10畳ほどのリビングの左側の壁は天井まで届く書棚が占め、テーブルとソファと机ふたつが置かれて、いっそう細長く狭く感じられる。
同行していた後輩のMsさんの話では、Sは大学に12年もいたらしい。国文科を出て倫理学科に学士入学し、大学院に進み、その間に全共闘運動の期間も経過している。Msさん自身もその時期にぶつかり大学の閉鎖があったりして単位が取れず、7年もいちゃっとよと笑っている。思索の読書人Sという面影をほうふつとさせたのは、書棚の本。奥方の話しもあって分かったのだが、国文科のときに取り組んだ小林秀雄(の全集)。学生夢中になったサルトルの著作。倫理学科の大学院で向かい合ったフーコー(の諸著作)。ドゥルーズやガタリなどが、まるで書店の(「哲学」書棚の)ように哲学書がずらりと並んでいる。
そうか書棚というのは、そういう形跡を示す役割を果たすのか。私などは、引っ越しの度に売れる本は売り払い、退職してどっと整理し、図書館がオンラインで結ばれてほとんど本はいつでも手に入るとわかってさらに処分した。本棚は半ば空になり、山の本など実用書ばかりになっている。たぶんこれでは本なんか読んだ人とは思えない(と思われるかもしれない)。ま、そう思われようと、だから何だよという年齢になったから、どうってことはないが。
Sが進学校の高校教師であったことは、いつか話をして知った。都立の進学校に14年、強制配転で商業高校に14年、それが彼の職歴の全てであったと奥方は話す。ただ退職して後も、年に何回か当時の同僚たちや卒業生たちと集まりをもって行き来をしていたという。静かな、聴く人であったSの人柄が好感を持たれたのか、彼の思索と語り口の魅力が引きつけたのか、そこはわからない。奥方の話しでは、退職後ほとんで出かけることなく本を読んでばかりであったが、ここ数年は本もあまり読まなくなり、TVばかりみていたという。何か執筆していた様子もない。
持病でもあったのかと訊ねた。もう十何年来、アスペルギルスという肺にカビが生える持病をもっていたが、亡くなったのはそれとは関係ない虚血性心筋梗塞、苦しむことなくあっという間であったろうという。奥方もお茶の水大学で倫理学を勉強していたというから、彼との話は弾んだのかとおもわないでもなかったが、夫婦というのはそういうものではない。まだ60歳代と思われる奥方もパーキンソン病であろうか、手が震え、言葉つきが心もとない。子どももいない。Sの葬儀も、奥方と奥方の弟夫婦とSの昔の同僚とが立ち会って見送りをしたのだそうだ。
建物の壁一枚隔てた大都会の賑わいを、高みの書斎から眺めるだけのひっそりとした読書人。ふと高校生の頃暗唱したシェイクスピアの「マクベス」の最後のセリフを思い出した。
Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury
Signifying nothing.
静かなSがどれほどのsound and furyに包まれたことがあったかはわからない。せいぜい愚痴くらいではなかったか。こうして綴っているこちらはan idioにほかならない。子どもがいないということがわびしいという気分につながっているのかもしれない。まあ、まとめて日本流に言うと、無に帰するというのであろう。Signifying nothingである。
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