2018年4月29日日曜日
人を人たらしめている原基
宮部みゆき『孤宿の人』(新人物往来社、2008年。初出は2005年)を旅の途次に読んだ。先月の「ささらほうさら」で「宮部みゆき」をテーマにnjさんが話しをしたとき、この作品のタイトルを耳にした。十年も前の作品だ。図書館の書架にあった。時代物。舞台が、「あとがき」で宮部自身が丸亀に範をとったと記しているのも、親密に感じたひとつ。私の生まれは香川県の高松。育ったのは対岸の玉野。丸亀は海の向こうに見えている(瀬戸大橋を渡った)対岸にある。
江戸時代を舞台にした物語は、身分や男女の壁や社会制度や慣習がもっている歴然たる差別性を前提とするから、「かんけい」が描き出しやすい。読者がもっている(自己形成上の)社会観や世界観の差異をひとまず棚上げして、作家のとりだそうとする輪郭をクリアにするのに格好の舞台となる。もう一つは、そう言った差別性が社会関係の前提になるから、それらを取り払った上でなお、ひととひととの「かんけい」に焦点を当てると、まっすぐ根源的な、原初のと言ってもいい人間の存在と関係の本質に迫るかたちを描き出すことにつながる。宮部の作品は、いつも、そうした視線をもたらしてくれて、私は好感を懐いている。
ストーリーは、ひとまず脇に置く。語り部としての宮部がどのように登場人物を性格づけ、どのように振る舞わせるかという微細な、日常的なところに、宮部の筆はさえる。この物語に登場する舞台回しの「主人公」は、幼い、身寄りのない、目に一丁字ない女の子。江戸時代の舞台におかれたこの子は、身分の序列からも、男女の差別からも、読み書きからも、家族関係からも、ことごとく埒外に置かれている。あほうの「ほう」だと名づけられている。社会関係の波に洗われて力のない庶民は、いわばこの子と同じ存在にある、と私は読み取った。この主人公は、したがって、物語りの大筋を動かしていくことに何の力ももっていない。にもかかわらず宮部は、この子が人の生きる道筋を示す「方角」の「方」であり、ついには、人として生きるにおいて「宝」の「ほう」だと、物語の心柱になる人物に言わしめる。つまり、「ほう」のありように、時代を超えて通底する「人としての存在」の原基をみてとろうとしている。まさにこの子のもっている「気質」「振舞い」「愚直とも言える信頼」につながる日頃の営みにこそ、人との「かんけい」のもつもっともたいせつなことが与えられているとみて、物語の語り部は希望を託していると読み取った。
読み書きを軽んじているわけではない。だが、もっと根源的な人の営みの精髄があると、読み書きのできる作家宮部は視線を下降させていく。拭き掃除をきちんと済ませ、繕い物も丁寧に行い、薪を割り、火を熾し、食卓を整えて、他人様の身体に気遣うという「かんけい」的な振る舞いを、身体に刻まれているかのように愚直に行うことの出来ること(疑うことを知らぬ、ひととの「かんけい」への)信頼感。その振舞いを己自身の手で行っていることのかけがえのなさ。それこそが、人を人たらしめていることなんだよと、宮部は、この作品を通じて述べ立てていると、私は受け取った。
作家が小説の「あとがき」を書いて、モデルは丸亀藩であり軸になる心柱は鳥居耀蔵だと記している。これは珍しいことだ。作品のモデルがあり、全面的にフィクションではないと言い訳をしていると受け取る向きがあるやもしれないが、時代物の、まったくの物語に、どうしてそのような申し開きが必要であろうか。むしろ宮部は、目に一丁字ない(文字通り無垢な)子どもに希望があるといったときの(この作品を書き終わった後の)、作家自身の現存在とのギャップに気づいて、丸亀藩だの鳥居耀蔵だのと目くらましをくれないではいられなかったからではないかと、私は読み取った。どうしてか? 読み終わった読者から、「ではあなたは神のような立ち位置で見ているのですね」と言われては返す言葉がないと思ったからにちがいない。そう、私は解釈している。そしてその態度がまた、私を宮部ファンにしているような気がするのだ。
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