2018年4月15日日曜日
他人の目にさらす
いま「孫」に関する冊子を作っていると、以前お話しした。とっくに原稿は入れ、写真を添付したほうが良いというので、何百枚もの写真を、原稿のどこのページに相当すると付け加えて送付した。そしてデザイナーの手に渡り、いま半分ほど割付が出来上がって順次送付されてきている。それを見た一つの感懐。
三部構成の第一部がpdfで送られてきたとき、私が想定していたより、使われている写真が少ないと感じた。第二部のpdfが送付されてきたとき、写真はそこそこ採用されているが、それでも少ないと思った。そして昨日、封筒に入れた刷り物が送りつけられてきた。当初「流し込みを完了しました」として送られてきたテキストとは段組みが変わり、写真の占めるモチーフが浮き彫りになっている。pdfで観ているときと違って、写真の占めるデザイン的「意味」が明快になっているた。やはり紙に印刷して机において広げてみるというのは、視覚においても違った「世界」を味わっていることだと思った。アナログ世代の身体感覚なのだろうか。
わかりやすく一言でいうと、新聞を見ているような感触なのだ。ページ全体に占める文字の割合が2/3~1/2と、見やすく、かつ、読みやすくなった。テキストの行間もその書かれている文意をくみ取り、適宜空けて、「日録」の引用を書体を変えた文字で飾り、いちいち頭に飾りをつけて分けなくてもよくなった。いやはや、見事、さすがデザイナーだけのことはあると言わねばならない。写真をたくさん送りつけたときの私の感覚では、大判の旅行案内冊子のように、けばけばして目移りするようなつくりだったと、振り返って思う。でもそうやってみると、文章の方がすっかり影をひそめて、読まれなくなる。デザイナーがテキストを読み取り、その趣旨を引き立てるように写真と空間を使っているのだと、思うようになった。
デザイナーの手にかかった写真をみると、その選択に私の強い思い入れがこもっていたと思い知らされる。選択された写真の数や善し悪しではなく、他人の目が入ることで、私の「孫」に対する思い入れが昇華され、テキストに込められた「真意」が浮き彫りにされていくような気がする。そうか、編集というのは、そういうことか。本を編集したこともある私であるのに、今ごろ自分が筆者になったことによって(はじめてのように)そのことに感づいている。おかしい。
他人の目にさらすことによって、コトは一般化する。読みやすくするというのは、そういう意味で、社会化していく第一歩になる。そういう社会的積み重ねが、社会一般の気風をかたちづくる。その気風を吸って人は人間になっていくのだ。今週末にでは出来上がる。ちょっと楽しみにしながら、最終部分の送られてくるのを待っているところだ。
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