2018年4月18日水曜日

文章は表音文字、編集やデザインは表意文字である


 今日は雨。夜中にはずいぶん大きな音を立てて降っていた。山の会の月例山行が予定されていたが、「予報」が雨とあって、中止をした。ふだんなら延期なのだが、明後日から私は遠方に出かける予定がある。来週に延期もできないので中止にした。お蔭で今日はゆったりした休養日になった。


 昨夜遅くに、いま取りかかっている冊子のデザイン最終版が出来上がってきた。A4判でいうと160ページほどの、文字と写真が入り混じった、膨大な量のpdfだ。PCでは受け取れない。でも便利になったもので、どこかのサイトに預け、それを私が引き出して保存して閲覧する。ファイル名に、見たこともない中国文字が混じるから、ウィルスが入っているかと心配になる。

 3,40ページ分づつファイルを分けてある。その都度校正した点をメールで返信すると、その修正版のファイルもついてくる。表紙は二案作成してあり、そのいずれを選ぶかを訊ねてくる。テキストの構成はとっくに終わっているから、写真の選択だけを気にしているのだが、ふと目にとまった「見出し」に、重複した記述があった。そこは削除をお願いしたが、はてそうなってみると、他にも(見落としが)あるんじゃないかと心配になる。でもしようがない。そこまでが私の力量なのよと見切って、あきらめる。

 デザイナーは本文の趣旨をくみ取って、私が用意した写真のなかから選んでデザインしてくれるが、ちょっと本文のイメージと食い違う箇所があった。娘の家の周辺のことを「人工空間」とみてとって、それだけに緑が多く道路や橋などが曲線を交えた工夫がなされているが、私の心もちが落ち着かない。そんなことを記した部分だ。ふと、婿さんの顔が浮かんだ。彼ならそういうのを持っているではないか。LINEで問い合わせる。さっそく彼は、自宅周辺の航空写真というか、ドローン写真をスマホに送ってくれた。うん、これはいい。これにしよう。そう思ったが、その写真をパソコンに送る方法がわからない。しばらくあれこれやってみたが、送付できない。あらためて婿さんに、「どうやったらいいか教えて」とLINEで頼む。さっそく「パソコンに送ります」と返信が来て、なんとか編集者に送ることができた。そうだよね。教える手間暇をかけるよりは、直に結果へ近づいた方がいい。山歩きのショートカットのようなものだ。近道教えますってことだね。

 ほぼこれで、冊子作成にかける私の仕事は終わった。編集者の話では、20日には出来上がって、私の依頼先へ送付してくれる。表紙も少しばかり「かわゆい」イラストになった。400字詰め原稿用紙で450枚ほどの「硬い中身」を少しでもほぐそうと、デザイナーが考えてくれたってわけだ。

 冊子を作ろうと発想したのは、孫の二十歳の誕生日という祈念日向けでもあるが、これを機に爺婆としての二十年をまとめておかねば、もう二度と振り返って航跡を辿ることもあるまいと思ったからである。当初はだから、私のつれづれなるままに書き綴った「日録」や「日誌」を「孫」にかかわってまとめておこうと思ったに過ぎない。ところが、カミサンに話すと「孫に渡すのであれば、写真を乗せた方がいい。どうせ文章は読まないんだから」と簡単に、事態の成り行きを見通している。そうして写真を選ぶことになると、あれもこれもとずいぶん、ある。

 すでにいつか記したが、さらにそれに編集者、デザイナーの視線が入って、精選される。見出しひとつとっても、文字の大小や書体、スペースのとり方によって印象がぐんと変わる。書き手は「文意」を考えている。いや、正確には「文意」しか考えていない。だが「見出し」は見た目の印象が(読み手の)感性をとらえるように表れる。つまり、書き手はデジタル的に、表音文字的に見ているが、編集者やデザイナーはその文字やスペースや写真の存在自体が表意していることを汲み取って表現に持ち込もうとしている。そんなことも「発見」する体験であった。

 そういう複数の人々の身体をくぐらせ、その相乗効果によって一冊の冊子が出来上がる。そういう面白い体験をこの三カ月ほどの間にさせてもらった。むろん出来上がりは楽しみである。だがじつは、出来上がる日に私は、こちらにいない。(たぶん)電話も通じない離島へ遊びに行く予定だ。ま、楽しみを先送りしながら、孫から卒業した爺婆の暮らしに移行していくことになる。

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