2018年7月14日土曜日
「A JAPANESE LIFE」
『ゲッベルスと私』(オーストリア映画、2016年)を観た。監督は4人が名を連ねる。ドキュメンタリーとでも言おうか。ゲッベルスの秘書を務めていたブルンヒルデ・ポムゼルが80年近く前を想い起しながら坦々と語る。背がもう少し高ければ非の打ち所がない、演説の上手なゲッベルスに仕え、でもそれほどに彼の私生活に踏み込んだ様子が語りだされるわけでもない。そのところどころに、ナチスに熱狂していくドイツ民衆の様子、強制収容所に送られるユダヤ人を収めたフィルム、ヒトラーユーゲントが志願して出征する記念集会の模様、敗戦後に次々と暴かれる強制収容所におけるホロコーストの痕跡を明かすフィルムが差し挟まれ、彼女の語りがかぶさっていく。
「運命というか、日々過ごしている場所が収容所のようなものね。誰も逃れられない」「与えられた役割を手落ちなく誠実にこなす。そう生きるのが義務だと思っていた」という言葉に、ナチスのナンバー2として宣伝相を担っていたゲッベルスの秘書であったという「加害感覚」はまったくない。「何も知らなかった。私に罪はない」とこの映画の宣伝チラシにとりだされた言葉は居直りというよりは、人として生きるナイーブさが(戦後75年を迎えようという今の時点から振り返ってだが)率直に映し出される。彼女はその言葉につづけて「国民みんなに罪があるということなら、私にもあるわ」という。彼女の幼馴染であるユダヤ人の女性がどうなったかを(戦後5年間のソ連での抑留生活が解けて後に)調べたことを話すとき、彼女のいう「罪」が「戦争責任」ではなく「ホロコースト」を指していると分かる。そうして私は、この映画の日本版を制作した人は、この映画の製作意図を(日本風に解釈して)誤解しているのではないか、と思った。
この映画は、反語的につくられている。「何も知らなかった。私に罪はない」という言葉をピックアップするのは、ゲッベルスというナチス宣伝相の「戦争責任」へ目を向かわせる。だがそれにつづく言葉「国民みんなに罪があるということなら、私にもあるわ」に重心を置けば、ホロコーストに加担した、間違いなくドイツ人のエリート意識の根柢に流れる心性に光が当てられる。103歳のときにインタビューしたとされるポムゼルの口調は、しかし、ひるむことなく、確たる人生を歩いてきた確かさに充たされている。額や顎のしわ、唇に集まる皮膚の歳月を経て刻まれた深い溝は、(逃げも隠れもしない)まさにこれが「ドイツ人の人生」であったと言っている。
そうして、気づいた。この映画の原題は「A GERMAN LIFE」である。なのになぜ「ゲッベルスと私」にしたのか。それを私は「誤解」と読んだ。ホロコーストは人間の心性の根柢にまで突き刺さる。ドイツ人の根っこにある志向のエリート性を揺さぶり、ユダヤ人を媒介にして具現化していった「あの戦争/ホロコースト」には「国民みんなに罪がある」と言わないで、何と言おうか。そうとらえてこそ、この映画の現在的な意味も浮かび上がる。「私にもあるわ」というポムゼルのいいぶりが、そこにおいてこそ生きてくる。オーストリア映画というのも(周縁であるからこそみてとることができたがゆえに)ドイツではつくり得なかったと思わせるし、4人の名を連ねる監督というのも、「ドイツ人の人生」というとらえ方をして、(それを)どうとらえるかは(観ている)あなた方のモンダイだぞと呼びかけているとみると、腑に落ちる。
2時間に及ぶモノクロームの映像は、あたかも私たちの記憶を掘り起こしているかのようであった。そして、あらためて、A JAPANESE LIFE として、ポムゼルより1年早くうまれ、ポムゼルがインタビューを受けた年に亡くなった私の母親の人生を「あの戦争」と絡めてとらえ返すとどうなるだろうと思った。
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