2018年7月19日木曜日
ぼちぼち喜寿を迎える身のほど
山を歩いて「疲れ」がどう出てくるか来ないかなど、高齢化に伴う身体の調子の変化を、これまでも記してきた。だがちょっと違う微妙な変化が起き始めている、と感じている。
お酒を呑んだ後の「昇華」の機微が、変わりつつあるように思う。「昇華」というのは、アルコールが吸収消化されることを意味しない。アルコールがほどよくわが身に馴染み、わが身の細胞の隅々にまで生き渡り落ち着いて身の一部になることを指している。つまり、お酒が残る/残らないというのではなく、朝起きるときにはすっきりと痕跡も残していないことを「昇華」と呼んだ。これまでほど大酒が呑めなくなったのは、何度も書いた。それでも人と話しながら飲む酒はうまく、身体の調子を超えて飲んでしまうことも、ないわけではない。でも翌日に残るというか、消化できないほどは飲めない。己の欲するところに随いて矩を超えず、と身のほどが、歩度をそろえて高齢化しているわいとほくそ笑んでもいた。
ところが近頃、軽く晩酌程度に飲んだだけなのに、夜中に輾転反側して消化に苦労している身のほどが伝わってくる。500ccのビール一本が美味くなくて途中でいやになる。これまで一升瓶で6本まとめて買っていた焼酎が重たく感じられ、ほんの五酌ほどをお湯割りにすると、もう十分という気分になる。ワインは2杯くらいがちょうどいい。日本酒も一合で、もういいかという気分になる。友人たちと話しながら飲むと勢いで度を過ごすから、暑い夜の今日日は、また輾転反側するようになる。さすがに翌日に残る感じはないが、もう今日は呑まないで過ごそうかと午前中は殊勝なことを考えたりする。大きな転機が、わが身に訪れているように思う。
つい一昨日も年一回の健康診断をしてきた。胃はきれいだとカメラを覗いた医師は言う。膵臓の一部は胃の中の空気のために「よくみえない」が、残りの部分の様子から推察すると、問題があるとは思えない。エコーで脾臓や腎臓や肝臓も一緒にチェックして、医師は太鼓判を押す。結構なことだ。にもかかわらず、近ごろの睡眠時間はやたらと長くなっている。一度、4時間半か5時間ほどのところで夜中に目が覚めるが、それからまたひと寝りして、合計8時間以上床に就いていることが多くなった。私の母親が90歳のころにうとうとしていることが多くなって、心配したことがわが身に迫っていると感じる。これが悪い事とは思えないから、ぐずぐずと惰眠をむさぼるのを放置しているのだが、これもまた、高齢化の確かな歩みなのか。わが身の変りようをとらえたい気がする。
9月に北陸の温泉地で、高校の同窓生の「喜寿を祝う会」が催される。岡山在住の同窓生が企画して、関東に住む私たちの呼び掛けてきた。こちらの同窓会は二カ月に一回大学を借りてSeminarをやって来た。それがもう第二期に入り、6年目を迎えている。だから参加の中心は関東にあるが、岡山や名古屋からの参加者も加えて連泊で過ごそうというのだ。その案内をみていて、そろそろそういう集まりも適わなくなるなあと思った。じっさいSeminarに顔を出す人のうち半数以上は、参加しない。できないともいえる。どんな身のほどを見せてくれるか。どんな身のほどに出逢うか。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿