2018年7月23日月曜日

隠居の奥行(承前4)――ただのヒトからの再出発


(9)「野田は家禄百八十石で……しかし松江の実家は……家禄もせいぜい三十石前後ではなかったか……」と清左衛門は述懐する。それを受けてkwrさんは「家柄」へのこだわりがなくなっていることと「親子兄弟のつながりが薄くなっている」時代へと言葉を移し、「家禄」を抜き出して、こういう。「仕事を離れ、カミサンと二人で生きていくようになって、頼るのは年金、保険など国の制度だけというのは心細い限りである」。


 中学教師をリタイアして後に大学の教師を務め、教育長の任まで引き受けて72歳まで現役であったkwrさんが「心細い」というのは、ちょっと驚きであった。「日本の伝統的な、良き家族制度」の支持者である財務大臣が喧伝称揚するモデルのように妻は家庭を守り、ご亭主ひとりの共済年金や厚生年金で老後を過ごす彼にして、この言である。国民年金だけで暮らしている「隠居」は、ただただ食つなぐだけに思案を凝らす事態にあると、私の思いは一挙に慨嘆へと向かう。

(10)「相庭与七郎は丁寧な言葉を遣った。藩主側近の実力者といった驕りは見えず、あくまで元用人の立場をたてるつもりでいるらしいのがいささかくすぐったいが、清左衛門は悪い気はしなかった」と、経歴を知る人に囲まれて清左衛門は自らの誇りを保っている。

 kwrさんは、「隠居してからも頼られるというのは信頼されていると同時にそれだけの具体的な力を持っているということでもある」と、(清左衛門が)旧知に人たちに囲まれている「関係」をとりだす。だが「羨ましい気もするが、私の場合、学校現場から離れれば何ができるとも思えない。いい気になって笑われるのがオチである」と自らの場を見極める。清左衛門の「隠居環境」は、現役時代の経歴と地続きである。まるごとのコミュニティにお役目を務め、そのコミュニティで隠居暮らしを続ける。彼の経歴はそのまま「隠居」後も光を放つ。ところが現代の仕事場は、社会的にしつらえられた「場」にすぎず、リタイアしてそこを離れると「ただのヒト」になってしまう。隠居は、リタイア後に改めて社会的ネットワークを築かねばならない。それは(現役仕事から解放されて)「気分的に楽」であると同時に、まず己を「ただのヒト」と認知することから出立することになる。これがなかなか、凡人には、できない。ことにkwrさんのように、ひとつの教師人生を終えて後に(乞われて)大学教授と教育長を務めあげたとなると、「場」を離れた自らを「ただのヒト」に位置づけることを周りは許さない。

 だが私もそうだが、じつは現役仕事をしているときに自らを「ふつうのオジサン」と自戒することが多かった。若いころは鼻っ柱も強く、ある意味、社会的なリーダー(であらねばならない)という思いが強く私の内心を揺り動かしていた。ところが教育現場で直面する悪たれ生徒や落ちこぼれ生徒たちの振る舞いは、私の鼻っ柱を軽々と一蹴してしまうほど、権威に対して不遜であり、権力に対して無謀であり、規範に対するに暴力的であった。私自身の「知的な力」は、ものの役に立たないと痛烈に感じるほど無力であった。と同時に、同じかれらの心の内側に脈々とひそめる「人への/人からの信頼や切望」が感じとれる。それに呼応しているのは、「知的な力」ではなく、私自身が子どものころからいつしか身に備えてきた人に対する「かんけいの力」だ。そういう思いが浮き彫りになっていく。社会的リーダーなどと気取ってみても、この社会の支配システムの構造的な上位に着けば力が発揮できるというものでもない。この世のどこにいても、同じモンダイと向き合わねばならないのだとすると、今この現場で逃げるわけにはいかないと「土着する」ことを考え、宣言した。1970年代の初めのころのことである。それが「ふつうのオジサン」の自覚であった。

 あいかわらず、OJT(on-the-job training)であったことは言うまでもない。しかも、生徒との関係を変えるということは、学校を丸ごと変えることを視野に入れなければ適わないことも痛切に思い知った。当時(1970年代初め)の定時制高校の教師たちの多くは、研究者の気分であった。生徒たちも「金の卵」といわれ、家庭の経済的事情によって進学機会をもたなかったがゆえに故郷を捨てて都会に就職し、定時制高校を経てお金をため大学へすすみたいという、向上心一杯の子どもたちであふれていた。その生徒たちは権威にも強い憧憬を懐いていたから、研究者気分の教師たちはまさに薫陶を垂れるに充分な場を得ていた。

 ところが1973年のオイルショックから一変した。翌年の「金の卵」はゼロになり、地元の全日制高校に進学できない子どもたちが、どっと定時制に押し寄せた。そればかりか、全日制高校を首になった悪童たちが、これまたどっと、定時制高校へ転入してくるようになった。にもかかわらず、研究者気分の教師たちはそうやすやすと変わることもできず、(「金の卵」という向学心に富む貧しい子どもたちへの共感という)正義感だけで、薫陶を垂れることができると思っていた。学校はたちまち荒れて、教室の秩序さえ保つことが難しくなっていった。そこから私は、「教師は学校をつくる。学校が生徒を育てる」を標語として、学校態勢の立て直しを試みた。それが地域に定着し、中学校からそれなりの評価を得るのに、七年かかった。

 話しを元に戻そう。「ふつうのオジサン」が教師を務めているという自覚は、立ち居振る舞いをふくめたまるごとの存在が「かんけい」を紡ぎ、それが生徒に対して思いがけぬ心裡の作用を施して生徒の自律を促す。教師が教育しているというより、教師は場をつくり、「かんけい」をつくる。それが教育的に作用するかどうかは、人としての基底的なありようによっている。気風とも言い、ときには作風とも言ったが、要するに教師の関係がつくりあげる学校の風儀が生徒に対して薫陶を与えると考えたのであった。つまり私一個の「力」はそれ自体としては働かない、と。

 だからリタイアしてこれからを生きる私の得意技は何だろうと考えたとき、学校の教師というのは本当に学校という場を離れると何も活きる技がないと思い知らされることになった。おしゃべりと山歩き。でも仕方がない。「隠居」というにはまだ早かったが、15年前から得意技にすがってやってきたのであった。

 その日々に(書き綴って来たことによって)痛切に感じること。単に「ふつうのオジサン」というだけでなく、自分がいかに卑賤で下劣であるか、愚昧であるかを思い知らされる。そうして未だ引き摺っている私の裡なる「研究者気分」を探ってみると、人はいかにして人になるか、人はいかにして規範を受け継ぎ、受け渡ししていくのか。ゴーギャンではないが、「何処から来てどこへ行くのか」。そういうことへの探求心だけが、胸中に残る。まさに「隠居」にふさわしい「論題」ではないか。(つづく)

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