2018年7月20日金曜日

隠居するとは


 昨日(7/19)は「ささらほうさら」の定例会。講師はkwrさん。お題は「隠居」。藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』を補助線にして、己の「隠居」を振り返るという試み。


 「残日録」とは「日残りて暮るるに未だ遠し」を意味する。つまり、役職は引退したものの、彼岸に逝くにはまだまだという、ご自分の現在と重ねた。三屋清左衛門は藩主の用人を務めた53歳。kwrさんは市の教育長を務めた75歳。江戸のころの「人閒五十年」というのを勘案すると、社会的感覚としてはほぼ同年齢とみて良いか。

 その三屋清左衛門に仮託して「隠居」を語る藤沢周平の口舌とわが身のありようとを照らし合わせて、13項目にわたって「隠居」の様子を語る。

(1)「惣領の家督相続がないので、年金生活ではあるが独立して生活する。「隠居」とは言えない」と自己規定する。これは大家族制が健在であった江戸のころと、すっかり核家族化してしまっている現代の家族制度との差異を土台に参入して「隠居」を考えるから、違いが明白になる。昔の大家族制を前提にした「隠居」のように、上座に置かれ(て敬して遠ざけられ)ることもない。街中では、ただの「おいぼれ」。「隠居」という言葉が醸す精神的な異次元をもつ響きが、いまはない。「国難」の後期高齢者である。核家族は大正期には急速にはじまったと誰であったか、研究者が書いていた。それでも地域的な結びつきが強かったころは(その善し悪しは別として)、人が孤立するということはなかったといえる。ところが戦後の更なる核家族化の進行は、家族の結びつきさえも解体し、人は個々人の自主性で生きるのが第一と考えられるようになった結果、地域的な結びつきも解体されてしまった。また別の要因が作用しているのだが、長幼の序ということも(私などの世代を最後に)消えてしまった。「隠居」と言っても、ただの年寄り。「国難」と言われては「おいぼれ」も立つ瀬がない。「家督」というのは(財産ではなく)「その家の気風/関係」を継ぐことと民俗学者の誰かが言っていたが、それすらも遺伝的に、自然的に伝承されるもの以外は、意識さえされない。「隠居」の権威は、もはや、なにそれ? になっている。

(2)「隠居して悠々自適の晩年を過ごしたい……」「そういう開放感とはまさに逆の、世間から隔絶されてしまったような自閉的な感情……」と藤沢は描くが、kwrさんは悠々自適の中でストレスから解放され、健康を取り戻した。世間とのつながりをつくろうという気が起ってこないのは、疲れていたのだろう。時間を持て余すときもあるが、ノンビリしたいという気持ちが強い。「自閉的」になったともいえるが、藤沢の口調にあるように「世間から隔絶された」という感はない。自ら選んだ好ましい道という趣がある。

 「隠居」とか「悠々自適」という言葉の響きは、世の中に対するひと仕事為し終えて、これからは勝手にさせてもらいますよという自在さに充たされている。現役というのは、まさに労働力を売る仕事であって(もちろん本人がどう意識していようがいるまいが、売る労働が社会的な意味を持っていて、この社会存立の欠かせない一端を担ってはいるのだが)、ストレスに耐えていくしかなかった。だからこそ、のんびりと遊ばせてもらうという気分が「開放感」に通じるのだが、無意識の社会的関係が職業的な関係においてかたちづくられていることに気づくのも、「釈放後」になる。自閉的になるというよりも、社会関係から零れ落ちてしまうのだ。つまり引退後に改めて、社会関係を一から築きはじめなければならないというのは、これは大変なことだ。職業的なポジションとか、職能的に結び合っている関係というのが、ただ単に機能的にしかとらえられていないと、仕事から引いたとたんに、すべてが蒸発してしまうのだ。

 しかし職能的な特技(たとえば税理士や会計士が数字に明るいとか、建築関係者が団地の給水管や修繕工事に詳しいとか、都市計画の設計者が造園関係のことに通じているとかの特技)は、地域の仕事の役割を担ったときに水を得た魚のように全面開花する。と同時に、職業的に身につけてしまった人との応対の仕方も露出するから、態度が尊大であったり、ことばが高飛車であったり、あるいは単に法的な言語でしか喋れなかったりして、上から目線と嫌われることになる。自ずから「控えめに位置する隠居」に如くはないから、「自閉的」にみえる。そういうこともあるのだ。

(3)「その空白は何か別のもので、それも言えば新しい暮らしと習慣で埋めていくしかない……」と藤沢は記す。三屋清左衛門は「若いころに中途半端にした剣の修業、学問を再開し、釣り、鳥刺しなどを始める。藩のもめごとに「隠居」の立場で取り組む」。kwrさんは「新たに何かを始めるほどのエネルギーはなく、読書、ウォーキング、畑仕事(の手伝い)、家事(風呂掃除、食事の後片付け、庭の草取りその他)、月二回の山歩き、月一回の日和田山ボランティアなど」と記す。つまりそれまでの「かんけいの成り行き」の引き受け方によって「新たな」役割は発生し、習慣化することによって定着していくもののようだ。その「かんけいの成り行き」は、私中心の現役時代の運びに対してカミサン中心の生活移行することを意味していた。暮らしの決定権はカミサンが握っている、と。

 断捨離とか言って、自分の現役時代のあれやこれやをすっかり捨ててしまうというのが、流行している。「他人様に迷惑をかけないで身罷る」のを理想とする人たちが言い出したことだろうか。自分のことは自分でするというのを、最終場面にまでもってくると、終活をしっかりと行って、「迷惑」を掛けずに「ハイさようなら」というのが美しいと思われるのであろう。だが、その迷惑はどれほどのものか。「還暦」というのは「生まれ変わる」ということから来ているらしいが、「生まれ変わったつもりになって」現役時代の終わりまでの自分の生き方を振り返り、一つひとつを辿り返して、意識化してみるというのが、一番の「中途半端にした」コトゴトを始末することのように思う。そういえば「自分史」を書くということをどこかの歴史学者が提案して一時期流行していたことがあった。今も続いているのだろうか。誰が読むの? という声が聞こえる。誰も読まなくってもいいではないか。自分が自分を対象化してみる試みであれば、まず自分という読者がいる。遺品に写真がわんさとあっても自叙伝が書き遺されても、残された者からすると、それらに一つひとつを思い入れて始末するのは、もう一つの人生を歩くようなもの。まして残されたのが同年齢の高齢者ともなると、とてもそんなことにかまっている暇はない。なるようになる。業者任せにしてすべて金銭の支払いで済ませるというのも、今風の「かんけい」をあらわしていて、容易に理解できる。

 別の人生を歩くのが、「隠居」の覚悟だ。むろん特技を生かして歩きはじめるのも悪くはないが、それを機に儲けようとか言うのはないであろうから、文字通りそれ自体のために生きる。つまり遊ぶのが、一番。むろん、社会的意味に生きる道を探るのもいい。ボランティアでも何でも、けっこう元気のいい動く人手を欲しがっている社会機関はいくらでもある。欲得・利得抜きでアクションをしてこそ「隠居」ではないか。そのためには、隠居サークルやイ隠居コミュニティをかたちづくって動かしていくことだ。その小さな「かんけい」からわが特技を生かしたメディアを創成していければ、第二の人生がそれなりに面白くなるのではないだろうか。(つづく)

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