2018年7月9日月曜日
利尻島・礼文島・稚内――弥生的な復元縄文人
バスで香深港に降り、すぐ近くの礼文町郷土資料館に向かう。島の北部にある船泊からたくさんの縄文遺跡が発掘されたと聞いたからだ。十数体の屈葬して埋められた骨が、ほぼ原形を保ったまま掘り出されている。こまごまとした副葬品も同じところから出土しているそうだから、どんな人が住んでいたかわかるのではないか。あった。DNAを解析して、髪の毛や目の色、肌のシミや皺までも復元した女性像が展示されてある。おや? と思ったのは、通常縄文人と聞くとえらが張った四角な顔を想いうかべるが、そうではない。むしろ弥生人のイメージに近いほっそりした顎をしている。やはり、南方系の縄文人と違った経路で入ってきた人びとではないか。しかも展示では、のちにアイヌが入ってきたと記しているから、アイヌとも違った人種なのかもしれない。面白いが、そうした侵入経路に関心がないのか、展示はそのようなことには触れていない。縄文土器も呪術に用いたのであろうか小さな土人形もまた、つくりがずいぶんしっかりしている。
外へ出ると風が強い。温泉に入ってからお昼にしようと駅近くにある温泉施設へ足を運ぶ。だが開場は12時から。風呂を諦めお昼を食べて宿に帰り部屋で宴会をしようと、近くの食堂に入る。寒いからラーメンを頼む。これがおいしかった。昆布の出汁がきいている。タクシーで宿に帰り、礼文島だから「礼文の昆布焼酎」を買っていって開ける。「昆布1%未満」とあるのは、どういうことだろう。度数は20度。これが軽くて飲みやすいとkwmさんはお湯で割って堪能する。甲類の焼酎をたくさん使っているのが口に合わない私は、利尻で買った昆布焼酎25度を開ける。生のまま飲むと、昆布の味がほわっと口に広がり、なかなかの味わい。kwrさんも口に合うのか、生のまゝに呑み、今日までの利尻や礼文の印象をあれこれとおしゃべりして、これが私たちの礼文の旅だと酔った勢いで納得していくようであった。やがてくたびれて寝込んでしまった。風は強く相変わらず吹き止まない。私は酔い覚ましに風呂に入り身体を温めてからひと眠りしてから夕食に行った。
最終日、港までご主人が車で送ってくれる。ふとバス停の名を思い出して「高校があるんですね」というと、生徒がじつは26人しかいない、これ以上減ると統廃合されてしまうという。といってこれ以上島民が増える見込みはないから……と愚痴る。4月に行った吐噶喇列島のことを思い出して「山海留学なんてやってるところがあるよ」と話すと、いやじつはそういう試みもなかったわけではないが、なにしろ南の島と違って冬が寒い。それに耐えられないで、居つかないんですよとため息をついた。礼文島の人口は2700人くらい。その人たちが住み慣れたこの島の自然を何よりも大事に思い、寄り添って大切にしている。稚内と一日3便、利尻島とも3便の往来は決して少なくない。吐噶喇列島の平島などは週に2便が行き来するだけだった。それに比して私たちが乗った船の出版時刻には、どこにこんなにたくさんの人がいたのかと思うほどの観光客が集まってきて一緒に乗船した。300人を越えていたように思う。
今日の波は穏やか。青空が広がり、利尻岳も中腹以上を雲に隠して大きな裾野を海に広げている。立っているとそれほど感じないが、横になると船の揺らぎが伝わってくる。大半の人は畳敷きの船室でごろりと横たわって寝入っている。船室のTVが韓ドラばかりをやっていると思っていたらいつのまにかコマーシャルばかりに変わっていた。2時間足らずで稚内に着いた。
飛行機が出るまで4時間半ほどある。稚内駅までタクシーで行き、レンタカーを借りる。プリウスしかないという。3時間借用し空港で乗り捨てることにして、kwrさんをnaviにしてレンタカー屋が手渡してくれた「観光地」を経めぐることにした。まず稚内公園。本道を逸れてぐいぐいと高台へと上がっていく。その丘の上が広々とした展望台になっている。北にはオホーツク海が広がる。東にはフェリーの港や漁港、稚内の市街地が屋根を連ねて眼下に稚内湾が一望できる。
「御製」と表題して「樺太に命をすてし たをやめの 心思えばむね せまりくる」と詠んだ石碑が設えられている。ちょうど五十年前に昭和天皇の行幸があったという。昭和天皇は、樺太駐在の(電話の)通信員であった女性たちがソ連軍の侵攻に際して「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」と通信して(全員に与えられていた)青酸カリを呑んだというのを聞いてこう詠んだらしい。だが、何だか他人事のような「心思えばむね せまりくる」だなと思った。「氷雪の門」と名づけられた大理石の石柱と高さ8mの女性像が建てられている。その解説に「人びとの天への祈り 哀訴 そしてたくましい再生への願いを表現している」と記しているが、この「天」が自らを指していたとどれだけ意識していたか。天声人語とは言うが、人声天語とはいかないようだ。神は人の代理はしない。そう言えば、話し変わるが、「テンゴゆうとらんと、はよ、仕事しいや」と大阪で商売をしていたオバが口にしていたテンゴというのは、戯言という意味であった。はて、あれは、天語であったか。
ノシャップ岬へ向かう。北の端へ来たという実感を味わいたいと思ったわけだが、北辺の海の先に利尻岳が山頂と山麓をはっきりと見せて、のっぺりとした海の広がりに強調点を打っている。すばらしい。あれに登ったんだよと、kwrさんが声を上げる。港の方からたくさんの人がやってくる。若いオジサンに「なに?」と問う。「北門神社例大祭」が催されているらしい。大漁旗が建てられ、神輿も来ているよ向こうに、とオジサンは指さす。餅も撒いてね、終わったところだと自転車を漕いで走り去った。手に餅の入ったビニール袋をいくつももったオバサンたちも、にぎやかにおしゃべりしながらやってくる。神輿を観ようと行ってみたが、ちょうどトラックに積み込んで運び去るところであった。大漁旗を飾った漁船の帆柱の向こうに、青空を背にした利尻岳が見えている。いいねえ、この景色。日本だねえと、海べり育ちの私は思う。
一路、東へ向かう。今度は宗谷岬。日本の最北端。宗谷湾をぐるりと回り込んで40kmほど走る。街中は北門神社の祭りが行われていて「通行止め」のところがあったが、主要道路は広く走りやすい。ついつい70km/hを超える速度が出てしまいそうになる。宗谷岬はひっそりとした観光地だ。「日本最北端の地」は三角錐の石柱。北斗七星を象徴していると記している。イタリアのミラノと同緯度と聞くと、えっ、と思う。気候条件がまるで違うからだ。観光客は記念写真を撮るとさかさかと車に戻り次へと向かっているように思える。間宮林蔵がキッと北を睨んで立つ銅像が凛として見える。生誕二百年を記念して建てられたのが1980年。ということは1760年生まれか。この地から海へ漕ぎだしたのは48歳の時だというから、今なら働き盛り。とはいえ、小船でよくぞと思う。「間宮海峡を発見、樺太が島であることを確認。世界の地図の空白を埋める偉業」と、説明板は言葉を尽くしている。
お昼は空港でと言っていたが、もう1時近い。道路わきの海鮮料理の看板がある食堂に入る。私たちだけ。私はイクラ丼を頼んだ。利尻港の食堂では4500円もしたものが、1750円。人の感覚というのは分からないもので、高い値段が記憶にあると、とても安く思えてしまう。そう言えば、羅臼岳に登ったときの知床のイクラ丼は2600円したのではなかったか。おいしい。一息ついて空港へ向かうその途中に「間宮林蔵渡樺出航の地」と記された場所があった。立ち寄る。そこに表示された解説を読むと、林蔵は1808年に二度も樺太に渡り、二度目のときは、ひと冬越して戻って来たらしい。ここからも利尻岳が見える。今は山頂を雲が覆っている。
ガソリンを入れ、車を返し、空港に着いたのは2時過ぎ。ひとつ誤算があった。ここでお土産を買えばいいと、街中をすっ飛ばしたのだが、この空港のお土産屋に「焼酎りしり」がない。いや焼酎どころか、アルコール類を一本も置いていない。stさんはご主人にぜひ「昆布焼酎りしり」と考えていたのに、置いていないと聞いて、がっくり。kwrさんは「羽田で買えばいいよ」と笑っている。土産を買う人たちを置いて、私とkwrさんはレストランに入る。生ビールを注文して「下山祝い」。
思えば、よくぞ無事に利尻岳にのぼったものだ。もしそれが無ければ、この5日間、なにをしに来たのかわからないような観光客になっていた。ただ北辺の地に住む人たちの空気を吸い、私たち通過者に向ける笑顔の裏側に耐えている日常が浮かび上がるように思いをはせてきただけに過ぎない。でも、しらなかった地を歩き、そこに暮らす人たちと言葉を交わすと、わが身が関東という地方の、現代文明に守られた環境の中で平々凡々と、そして、ぬくぬくとすぎしているなあと、感慨を深くする。慨嘆しているわけではない。すぐに一般化して、人間てすごいなあと、原初の人の暮らし方へ思いを飛ばして、いまをそれを受け継いでいる人たちへの敬意を、さらに深くしているのである。(終わり)
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