2018年7月18日水曜日

先を見通す視野とリアリティ


 6/22のこの欄で「私のシンギュラリティ」と題して、2045年までのことを視野に入れてわが団地の修繕積立金を構想しろという「反発」に遭っていることを記した。ベースになっているのは、築後29年目を経過しているわが団地の「長期修繕計画(サイクル)表」。初め、わが団地の設計建築を企画した大手都市計画企業が、築後の修繕管理を請け負うために設立した会社が、「サイクル表」を提出していた。それに沿って昨年、2022年の給水管給湯管の補修・更新の「見積り」を(何社かに)要請したところ、「サイクル表」を作成した会社は「見積り」に参加しなかった。当然(実施前段で)「なぜ」と疑問が出る。それに対して当該の社は「わが社ではそういう工事を行った実績がない」と回答があり、これまた当然、では「サイクル表」の積算基礎はどのようにしたのかと疑問の追い打ちが為された。「一般的な工事費です」という回答に納得できなかった団地理事会は、「サイクル表」の作り直しを別の建築設計コンサルタント会社に依頼して、つくりなおした。


 それをベースに、昨年10月仕切り直しをして、いまに至っている。理事会の付属機関である「専門委員会」に「付託」しようと提出したものが、「反発」を受けて立ち往生しているというのが、前回ブログのお話しであった。2022年の「不足額」を自力で賄うというのに対して、2045年を見通せという「反発」が私には理解できなかった。2045年までの「サイクル表」をみるとピークが三つある。2022年と2031年と2045年だ。それらの年度に大規模な修繕が待っているという見立て。その最初のピークをクリアしてはじめて(実際の工事費用と「サイクル表」にみる費用との差も明らかになり)、2031年が見通せるようになると(私は)見込んで、「付託」したわけであった。

 前回会議後にもう一度理事会に「再度付託するにあたって」と説明プリントを用意した。それは、「サイクル表」に基づいて2045年までの「赤字」の累積額と、もし(いくら)値上げをしたら積立金の累積額はどう変わるかをエクセルを用いて経年の表にしたものであった。そうして三つのピークをみていくうえでも、第一のピークをこえなければならない、再度「素案」を作成してもらいたいと要請した。すると(前回は「反発」した委員の側に立っていた)委員長は「付託を受け容れるのは(付属機関としては)当然である」といい、何の議論もなく受け入れが決まった。なんだこれは? 「反発」委員の(駐車場値上げをしないことへの)ガス抜きではなかったか。そんな感じだ。

 でも私の中には、大きな疑問が残った。私たちが見通せる先というのは、寿命程度ではないかという思いが、よぎったからだ。

 「2045年を見通す必要がある」と主張したとき彼の委員は「外壁塗装をはがす工事とかボロボロになるサッシなどを全面的に改修すること」や「いずれ更地にするときの経費」を考えておかなければ、ここはスラムになると展開した。わが住まう建物の寿命は(たぶん)おおよそ60年。目下大幅改修を実施している(たとえば)高島平団地は築後45年を超えるが、耐震補強改修がメイン。それに伴って「サ高住」に居室をリフォームしたりして入居者を募っているのは、賃貸だからでもある。いずれ全棟の建替えをすると言っている武里団地は築後60年近くになるが、これも耐震性に問題があるというので、建替えに手を付けたと聞いている。じっさいには原発でさえそうだが、寿命年数を(法的に)十年、二十年と引き延ばしている。原発がスラムになるというのはすでにフクシマで実証済みだが、それと同列に考える事かどうかも、わからない。

 「不確実性の時代」と言われるようになってすでに四半世紀が経つ。これは世の中がどう変わるかわからないという見立てだ。世の中の波に浮かんで暮らしている私たちの暮らしも、どうなっているかわからない。どうしたらいいか読めない、ということでもある。私なども、退職金を預けている金融機関から「いい投資先がある」とすすめられても、それが「十年物債券」だったりすると、基本的にその話には乗らない。私の寿命が(平均寿命と考えても)そこまでもつかどうか、わからないからだ。まして投資先が「トルコ」であったりすると、目下躍動中というか変化の途上にある。儲けたいと思ってもいない。今の額を保持するだけのために、金融機関はあると考えている。

 まして自分が住んでいる建物のことだ。自分の寿命を超えて構想するには、子や孫という引継ぎ手がイメージされていなければならない。そうか、子や孫のことを算入すると、おおよそ百年をひとは考えて、先を見通すことをしなくてはならないか。そう言えば、百年の大計ということを教育を語るときの枕詞のように使っていた時代もあったなあ。じぶんの寿命を基準に考えるのは、私だけの偏狭な考え方なのだろうか。ひと世代30年というのが標準的な計算法だが、私の残り人生を考えてもせいぜい60年後をイメージする必要があるか。

 ともあれ遠隔地に住む私の子や孫は、当然ながら、(建物の)引き継ぎ手には入らない。とすると、私とカミサンの一代で始末を考えることになる。後は野となれ山となれとは思わないが、2033年には全国の家屋の1/3が空き家になるという人口統計の推算をみても(人口が集中する首都圏だから異なる見方も成り立つが)、スラムになるかどうかというモンダイは、都市計画にかかわる。そのために「都市計画税」というのも、長年収めてきている(と思っている)。ひとつの団地が自分の財産を処分する仕方として準備するのでいいのだろうか。

 ともあれ、「不確実性の時代」ということや「都市計画」のことなどを「専門委員会」で議論するようなことだとは思わない。でも、団地の居住者が、積立金を将来の備えて準備するということを判断するときには、じつはそういう時代の気風が影響を与えている。皆さんの先を見通す「眼力の及ぶ範囲」は(たぶん私同様に)寿命の程度に限られているのではなかろうか。その「論議することではない論題」と「しかし人々の判断に影響を与えている気風」とをどう組み込んで話をすすめて行けばいいか、思案している。人の感じている「リアリティ」と関わるのであろう。

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