2019年3月16日土曜日
私の平成時代(6)――環境管理型社会の構築へ
《ハイ、売名です。あなたも売名したら? みんな助かるよ》
これは、昨日(3/15)の「折々のことば」が引用した、杉良太郎のことば。引用者の鷲田清一は、こう続ける。
《15歳での刑務所慰問を皮切りに、国内外での福祉活動歴は60年になる。歌手になる前、知人のカレー店で無給で働いたのも、「見返り」を求めない人生の道を貫く覚悟を決めるため。東北の被災地で炊き出しのカレーを混ぜている時、リポーターに「それって売名ですか」と訊かれた。寒空の下、人々が並んで待っている。反論する時間も惜しかった。「週刊朝日」3月8日号から。》
「反論する時間が惜しい」というよりも、杉良太郎のことばは、善悪を越えているところが、すごい。「売名」という言葉は、行っている行為そのものとは「別の意図」つまり「悪意」があるという使い方をする。それを「あなたも売名したら?」と返したことで、「悪意」は、杉良太郎のモンダイではなく、問いかけたリポーターのモンダイでしょと、投げ返している。「反論する」という性質のやり取りではないから、鷲田清一がちょっと、ことばの深みをとらえ損ねているコメントだ。
おとといの「ささらほうさら」のテーマが「いじめ問題」であったことは、先日記した。そのときの世界観、人間観が問題になったと触れたのは、「いじめ」を是非善悪で切り分け、児童たちに「いじめられたもののつらさをわからせる」という対処法について、そんなに簡単なことではないのではないかとやりとりがあった。「いじめ」る行為そのものはヒトが成長していく過程の不可欠の要素であって、それを単純に排除するということは、ヒトの成長を押しとどめるようなことでもあるのではないか。恨みつらみ、妬み嫉み、排除や差別は、そういう行為をすることによって、「じぶん」をどこかに位置づけたり、わが身(や心)の安定を保ったりする作用をしているだろう。その行為自体には、善悪をかぶせて処断するべきではない「本性的な」何かがあるのではないか。ところが、近代市民社会において出現する「いじめ」を、法的言語で語ろうとするから、コトの端境を明快にしなければならず、結果的に「いじめられたと思えばいじめになる」という文科省の「定義」のようになってしまう。まあ、そんなふうなやりとりがあった。
そのあとの会食のときに、日本の小児科医は(日本の少子化という状況で技術的な腕を磨く機会が少なくなり)、途上国など(小児医療という分野のまだ確立していない海外)に行って、手術をしたりして、技術向上を図っているという話が出た。
「それって、けしからんと言いたいわけ?」
「いや、客観的に、そういう事実があるって話よ」
「だって、少子化で技術向上の機会が少なくなって…っていうのは、途上国へ行って小児医療に携わって手術回数を増やして腕を磨き、日本に帰ってきて高い技術で貢献するっていう文脈でしょ。途上国を踏み台にしているって非難してるんじゃないの」
この話、(小児医療という分野さえ確立できていない)途上国で医療貢献をしようと、日本の小児科医たちが出張っている(事実)とみたら、美談である。だから上記の「事実」を指摘した記事は、その美談を、日本の小児科医の技術的向上という(事実)角度から切り取ってみて、文脈を構成したのであろう。それを読み取る私たちは、自分のおかれている立ち位置から美談なのか、悪辣な意図をひそめた人体実験なのかと受け止める。
「いや、そういう事実があるって話ですよ」と発信する人は、客観的な立場、いわば科学的な立場と謂われる第三者的立場からとりだしていると確信しているようだが、発せられた瞬間にその言葉は意味を付与され、切りとる角度が受け取る人の立場のもつ偏向レンズによって調製されて、客観的というのが、なにを意味していたのかわからなくなるほどに、変わってしまう。私たちの使う言葉ってのは、そのように是非善悪で色づけられて、行き交っている。だって、その情報を受け取る人々は、三人称ではなく、一人称だからだ。
ということは、「情報そのもの」には是非善悪の価値はついていない、と言えるのか。あるいは、情報を受け取る立場を抜きにして「情報そのもの」ということがありうるのか。哲学世界ではシニフィアン/シニフィエという用語を用いてそのあたりの論議を尽くしているようだが、それは、上記の客観的・科学的・三人称の立場という近代論理世界が蔓延した世界で、それを考えだし、受け取っているのは「我」ではないのかという煩悶から生まれた論議だ。純粋理性とか実践理性という分け方で、ヒトの考え方の次元を区分けして、普遍的な、まるで神が考えているかのような立場を「真理」としてとりだす仕掛けでもあったと、振り返って思う。
でも私たち庶民は、西欧流の「神」を知らない。八百万の神々は、暗い世の中を明るくするために酒を呑んで宴会をし、裸踊りをして力づくでアマテラスを世の中に引きずり出すような、なんでもありの八方破れである。私たち自身が自然そのものだし、ヒトに限らない。生きとし生けるものすべてが、生まれ落ちたとき邪悪であるという、西欧神のもっているような偏見をもたない。むしろ、生まれ落ちたときは白紙であるという思い込みのほうが強い。こうした自然観から自生してくる万物の(西欧風にいえば魂の)視線が、私たちの内部に外部的な視線を培う。
それは、自分の行いを「じぶん」がみているという感覚を生み出し、多くの人とともに暮らしているときの「じぶん」の振る舞いを対象化していみる目の役割をつくる。世間体を気にするとか、他人様に迷惑をかけないとか、まず「じぶん」を律して身を整えよというふうに、身の裡の「外部」になる。それが西欧流の「超越性」に代わる役割を果たしてきた。
一人称は、独善的になる。何しろ自分の立場を護るというのは、生きとし生けるものの普遍的な行動原理である。西欧神は、ヒトの独善を認めている。旧約聖書のカインとアベルの話も、マグダラのマリアの話も、ヒトの罪を「原罪」として認めて、それを克服せよと「神への愛」を語る。それは、善悪をつけて世界を見て取れという世界観の確立でもあった。
ところが、その絶対神と切り離して離陸した近代科学の三人称は、神に代わる客観的な「真理」を突き出して、「普遍性」を掲げた。ひとつは、人民主権という民主主義思想であり、それと相前後して生み出された資本家社会的市場経済である。別様に謂えば、自由と平等の思想である。それらは、一人称にたいして西欧神よりも強烈なインパクトをもって、人々に作用した。西欧においては、絶対神からの解放であり、アンシャンレジームからの自由であった。それは、資本家的市場経済の自由さと平等とが相まって、暮らしの結界を食い破り、優勝劣敗・弱肉強食の競争原理を駆動輪にして世界を一つにしてしまい、ついには未開地を駆逐してしまった。
八百万の神々を戴いてきた土地では、近代社会を構築するために西欧が払ってきた労苦に関心を払うことなく、そのエッセンスだけが取り入れられた。自由と平等。民主主義と資本家社会的市場経済。むろん、それぞれの社会の経てきた蓄積に組み合わされて変色してきた。だが組み合わせの過程で、現住地社会の築いてきた共同性とともに共有していた気風も解体され、勝手がっての自在主義が横行するようになった。社会的変化に人々が適応してきたのである。つまり、世間が解体され、一人称の「外部」もどこかへ雲散霧消してしまった。
資本家社会的市場経済では、損得だけが人間行動の基本原理のように受け取られ、社会そのものが保たれている「かんけい」秩序が自由放任になった。それは、八百万の神々の住まう自然観社会においては、ほとんど動物同然に、「わがまま」に振る舞うことを意味した。ことに高度消費社会を経験したのちの社会においては、(最初の問題提起者の趣旨とは少し違うが)人びとが動物化したのである。
では、その社会の秩序は、どう保たれるようになるのか。環境管理型社会の構築である。それが、平成時代の社会変化を特徴づけているし、それに適応する人々の変容が、昭和時代と平成時代を明確に画するようになった。(つづく)
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