2019年3月30日土曜日

平成を象徴するコンビニ人間


 小説を2冊読む。
 一冊は、桐野夏生『バラカ』(集英社、2016年)。既読感がつきまとう。刊行されてから3年程になるからTVドラマにでもなったのを見ただろうかと思いながら読んだ。これといった感懐をともなわない。読み終わって、ひょっとしてと思って、古い記録をみたら、2016年7月4日のこのブログで「まったく他人事としての物語」と題して、書評まで書いている。読んだ、もう一冊と関係するから、その全文を再掲する。


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 桐野夏生『バラカ』(集英社、2016年)を読む。
 2013年11月12日のこの欄で、桐野夏生『優しいおとな』(中央公論新社、2010年)を『ポリティコン(上)(下)』(文藝春秋、2011年)の続編に位置すると位置づけてとりあげている。

 《先天的に単独者として出生したのではないかと思われるほど、あらゆる関係において孤絶感を持つ主人公の少年が、人に対する「愛着」を抱懐するようになる過程を、極地の場面において展開している。現代における人間の「孤立感」が何に由来するかと問うよりも、まず気づいたときには「孤独」であったという設定は、自己意識の誕生を契機とするととらえれば、極地を想定するまでもなく、むしろ自然なのかもしれない。「自己意識」とは「孤独」の別称であるからだ。》

 この『バラカ』は、自己意識としての孤絶感というよりも生まれながらの孤独という設定であるから、言葉を換えていうと、神の眼から見た孤絶感がストーリー全体を流れる通奏低音になる。つまり当人の自己意識としてはそれほど強烈な「孤絶感」はなく、むしろ読む者が「孤絶感」の行き着く先に見える着地点を見晴るかすようなテーマになっている。
 だが何がその「孤絶感」を増幅する作用をしているかとなると、ずいぶんと陰謀史観的な組み立てをしている。折角、3・11以降の後を見据えて、21世紀の半ばまでを視野におさめながら、何処の誰ともつかない、目に見えない「なにか」によって、追い詰められていくという構成は、いくらなんでも世界を単純化しすぎてつまらない。「折角」というのは、放射能という「目に見えない」脅威にさらされていることを、誇大に、象徴的にしないとストーリー展開のモメントとしては力不足と思ったのだろうか。
 世界を見る目が単純だというだけではなく、一人ひとりの登場人物の描き方も、卑俗に類型化しているから、誰もかれもがつまらない人物に見えてしまう。読む者としては、途中で投げ出さずに読み続けるのに苦労した。つまり読む私への批判的な食い込みが、まったくと言ってないほど、他人事として物語が進行してしまっている。
 3年前にも読後感に、

 《どのような成育歴を持つにせよ、「自己意識」が生まれるまでの間に、体に刻まれた記憶がある。体に刻まれた記憶というのは、無意識へインプットされたことごとを指している。それが現実の具体的「かんけい」において作動し、「親密さ」を伴う「愛着」へと結びつく。実際に物語はそのように展開するのだが、体への記憶を描こうとしていないために、「社会学実験」のような想定を持ち出さなければならなかった、とは言えまいか。》

 と記した。「体への記憶」というのを、人物像を描くときのベースに組み込んでいないために、このような浅薄な描き方になるのではなかろうか。取り扱うテーマ、視野におさめようとする社会関係が壮大であるだけに、惜しい作品といわねばならない。この作家は、頭でっかちなのだろうか。

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 いやはや、人様を「頭でっかち」と呼ばわるなら、私は「頭朦朧だね」。いい勝負だ。ま、でも、こうして読んだことを記録しておいたから、こうした自己意識をもてるわけだ。さてこの自己意識について最後に記したこと、《体に刻まれた記憶》が2冊目に読んだ本にかかわってくる。

 村田紗耶香『コンビニ人間』(文藝春秋、2016年)。同年に芥川賞を受賞した作品。図書館に「予約」していたら、3年近く経って届いたというわけ。3年近く待たされたということは、結構評判が良かったのかな。芥川賞をもらった作品てどんなんだろうという関心と、でも、買って読むほど流行に毒されてはいないという自尊心とを持つ人たちが、私同様に多いということなのだろうか。
 面白かった。

 昭和の最後を飾ったバブルのころから「自己実現」が盛んに叫ばれ、平成になって「世界に一つの花」とか「人生いろいろ」と多様性がもてはやされるようになった。それが、一億総中流を象徴するように、結局人それぞれのセンスと才能と思索と努力の結果が人生に反映されるという考え方に転轍され、「わたし」って誰? 「じぶん」って何? と一人一人に自問自答を強いるようなったのが、平成時代の入口にあった。自分の好みに合った振舞いとか、「私」の特性を活かした職業と考えるために、自分の好みや特性も、元来あるものとして探る視線が強調された。「わたしって、○○なヒトだから……」という言い方が若者言葉としてもてはやされた。

 だがそんなことは、実体的にあるわけじゃないから、実態的にみてとるしかない。そこを、この「コンビニ人間」は見事に衝いている。しかも、「わたしって……」という自己規定を乗り越えて、ともに日々を過ごす人たちのいろいろな断片がわが身に溶け込んで、「今のわたし」になっているという自己意識をもつ。その自己意識に至る「不安」が上手に掬い取られ、それがきちんと「社会の歯車になっている」という意識に支えられて、「じぶん」を保っている。そこに、時代批評性もあり、身体にきざまれた記憶としての「心の習慣」が浮き彫りにされる。翻って、平凡な他人への批評の強烈な差別・排除性に謂い及んで、「コンビニ人間」の合理性を突き出す末尾は、まさに《体に刻まれた記憶(心の習慣)》の勝利宣言のように響く。

 だがもしこの作品の主人公のように自分を見つめるなら、このコンビニ人間は、時代によってつくられ、断片化されたかたちで存在を認められている、自己認識の「にんげん」の姿だ。つまり、今の時代、社会の自然である。だれがどうしようとしてそうなったわけではないが、世界規模の社会の動きが、そのような自然を作り出した。それはますます、この後も加速されようとしている。コンビニはすでに、社会インフラになったというコンビニ・ホールディング会社の自己規定が、じつは、ほんとうの勝利宣言なのではないかと感じられる。

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