2019年3月19日火曜日

私の平成時代(7)「失われた」のはチャンス


 平成時代は、1989年、文字通り時代を画するような世界的な大変動とともに始まった。
 東西冷戦の終結である。「ベルリンの壁崩壊」に象徴される東ヨーロッパのワルシャワ体制の崩壊と、ゴルバチョフと父ブッシュによる「冷戦の終結宣言」であった。米ソ二大帝国体制の崩壊は、長く二項対立的に(それぞれに善悪の価値評価を伴いながら)諸問題を処理してきた集約点が消失したことでもあった。


 もう一つ平成時代を象徴する出来事が、IT(Information Technology、情報技術)の進展と普及整備であった。
 1992年に誕生したクリントン政権のゴア副大統領の指揮のもとにITネットの整備が急速に進み、たちまち世界経済をネットでつないだ。
 冷戦の終結で勢いづいたアメリカを中軸とした、高速度の金融資本支配が行き渡った。製造業よりも、株式や債券取り引きに見合った市場と企業の流動をすすめるアメリカン・スタンダードの体制へ変わっていった。グローバリズムである。
 そればかりではない。ネットが繋いだ社会の様相が変化し、それに見合って、人々の欲望と感性と思考様式の適応が変化を生み出し、人間が変わっていくさまが如実になった。

 以上が、私のみた「平成時代」の世界的様相である。

 そして30年を経た現在、アメリカの一極支配と予想された冷戦の終結は、冷戦時代を覆っていた二つの幻想――自由と人間尊重社会と平等と抑圧からの解放闘争――が消滅し、各国・各地の利害得失が集約する焦点は失われてしまった。その後は、いわば混沌の海に投げ出されたかのように漂流する状況を呈したのであった。
 9・11がそうであり、アフガンやイラク、アフリカ諸国、諸地域の混乱と紛争がそうであり、マルチチュードの反乱と呼ばれる抵抗の形が一つのそれであり、大量の難民とそれを受け容れてきたヨーロッパの行き詰まりが、それらを象徴している。
 あるいは中国が、アメリカに代わってパクス・チャイニーズを現実のものにしようと踏み出しつつあるのも、それを見て、「新冷戦」とジャーナリズムが呼んで囃子立てているのも、二項対立的にしか物事をみないゆえの世界観である。

 戦後「アメリカを国体」を国際政治的な立ち位置としてきた日本にとっては、冷戦の終結は「アメリカ国体」を抜け出す決定的な転機であった。むろんそれは、経済的な競争においてアメリカに対し優位に位置していたことが前提になっている。アメリカに依存することをほどほどにし、自律を志すという、日本独自の未来イメージを描いて、そこへ向けて踏み出すチャンスであったと、今にして思う。
 そういう議論がなかったわけではない。
 たとえば、バブル隆盛のその頃、マンハッタンの土地を購入するなどということよりも、その資金を投入して、将来に生きてくる研究活動に投資せよという建言もあった。それを引き受けた日立が埼玉県に研究所を設立し、当時博士号を持つ研究者を一千人雇用したと評判であった。
 あるいは、バブル崩壊後の「失われた十年」に入り始めた90年代中ごろ、給料を下げてでも勤務時間を短縮し、その分を雇用に回して、経済一本やりではない社会建設を思案するべきだと論議した覚えもある。つまり、クニ・社会の将来イメージを描いて、何のためにエコノミックアニマルとまで謂われて猪突猛進してきたかを振り返ろうとしていたのであった。

 その一つが、小渕内閣のときに公表された「21世紀日本の構想」である。河合隼雄を座長とする懇談会が提言したものであるが、地方分権や移民政策にまで言及して、「自立と協治で築く新世紀」と人々に呼び掛ける清新なものであったと印象に残っている。小渕首相は、それまでの宰相と異なり、コーディネーター的な振舞いを自らの役割と心得ているようであった。それは、その後の政治過程で忘れられ、それとともに、その志も雲散霧消してしまった。
 現在のアベノミクスのような、自分で自分をだますような自己満足的エコノミックアニマルになってしまっているのである。なんとも言いようのない事態だと、30年を振り返って思う。
 「失われた十年」が「二十年」となり間もなく「三十年」となる。何が失われたのか。グローバル時代に独自の道を歩む将来イメージを描くチャンスを失ってしまったのであった。(つづく)

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