2019年3月6日水曜日

断片で生きたいのにまるごとが追いかけてくる


 イタリア映画『ナポリの隣人』(ジャンニ・アメリオ監督、2017年)をみた。イタリアは、アフリカ系やアラブ系の移民・難民が流れ込む、最初の寄留地。出自も由緒由来もわからない人たちが寄り集まり、男女が所帯を持ち、子を産んで育てる。むろん生粋のイタリア人もいるのだが、こうも雑然としてくると、人びとは近代的な市民として自律して生きていくほかない。そのときの人と人の「紐帯」は、法的な言語にかろうじて繋ぎ止められる。出自も由緒由来もかかわりがない、法的言語に翻訳され表現されることが、ひとの関係をつなぎとめている。それ以外は、「余計なこと」だ。


 ナポリに棲む元弁護士の老爺、その隣人として移り住んでくる夫婦と二人の子ども。なんともぎくしゃくとした交わりがだんだんほぐれてくると思いきや、若い夫が突然、街でまとわりつくアフリカ系の物売りにキレる。その謎も、ず~っと後になって、若い夫の出自の故郷で起こった「事件」に由来すると推測させる。彼にとっては、掘り返されたくない出来事だったに違いない。だが同時に、古道具屋の店頭を飾る小さなはしご車に引き出されて胸中をいっぱいにする「郷愁」というか、わが身の琴線に触れて湧き起る「感懐」。対極にある現在の(法的言語世界の)悲哀が一挙に浮上して、次の場面は悲劇が覆いつくす。いうならばこれは、近代市民社会がもたらした悲劇だとでもいうように。

 隣人の老爺は病院に担ぎ込まれた隣人の若い妻に付き添いたいと思うが、親族じゃないと許可されない。「(隣人がそんなことをして)何の得があるか」と声を荒げる警察官のことばが元弁護士を父親と偽らせる。それは、この老爺と娘の現在のありようと重なり合って、ストーリーを展開させる。

 移民のアフリカ系の夫は、ナポリの町の一組の若い家族(という断片)として生きたかったのではないか。ところが、由緒が物売りの姿をとり、あるいは古道具売り場の装飾品のかたちをとって追いかけてくる。移民であるがゆえの、肩身の狭い街中の居心地は、ナポリ生まれの老爺にとっても同じだ。雑踏と裏路地の人混みが象徴的にそれを描き出す。私はとても、ナポリに身を置くことはできないと、ひしひしと感じた。

 断片で生きるのも侘しい。まるごとはもっと苦しい。でも、そうやってまるごとに包まれて生きていかねばならない私たちが、どうして法的言語の偏りに身を包んで、一人前の面をして平然と日々を過ごすことが出来るのか。そう、この監督は自問自答しているようであった。

 いやじつはこの映画を観に行く途中、都立美術館で「河鍋暁斎展」をやっていると知った。お茶の水から上野で降りて寄ってみようかと、行くときは考えていた。だが映画を観終わって、寄り道するのをよした。そうしないと、せっかく観た映画の印象が雲散霧消してしまうように感じたからだ。

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