2019年3月23日土曜日

人望がないという自己認識


 イチローが引退した。読売系を除いてTVも新聞も、メディアは大騒ぎしている。でも、45歳。野球選手としては長持ちした方だ。「偉業」と呼ばれるいくつもの記録の金字塔を打ち立てたというのを記者たちは承知しているから、イチローのことばが謙遜に満ちていると受け取っている。引退後、プロ野球の監督にはならないのかという問いにイチローが「人望がないから……」と応えたのも、謙遜と受け止めたようだった。耳にした瞬間私は、これがイチローのスタンスだと感じた。だから、「人望がないという自己認識は、あなたの選手生活にどう影響したでしょうか」と訊きたいと思った。


 イチローの受け答えは、メディアに取り囲まれる数多の「試練」を経ているからでもあるが、軽妙で坦々と思いを語っているように見える。記者とほどよく距離をとっている。それを私は、イチローが自身と距離をとっているからだと思ってきた。つまり日頃、自分の輪郭を身の裡から描き出すことをしているから、記者からの問いかけにも、ちょっと距離を置いて自分を眺めているようなスタンスが取れる。それが軽妙さになったり、「ユーモアたっぷり」に見えたりしている。

 つまり、「人望がないから……」という自己認識は、イチローの心裡の「外部」が「じぶん」をみていることばだ、と。それは、謙遜というような類のものではなく、記者たちが「偉業」と呼ぶことごとも、野球という限られた「せかい」のことでしかなく、それは「イチロー」ではあっても「鈴木一郎」の全てではないよ、引退してからの鈴木一郎は……偉業などなにもないよ、ただの人なのさと思っているように思えた。そこが、イチローの偉いところだと私は、感じている。

 最初にそう感じたのは、イチローが国民栄誉賞を断ったとき。「まだ現役ですから、畏れ多い」という言葉もそうだが、「わたしはそんなにエラクない」という自己認識を披露したと思った。そうか、この人はそういうふうに自分を見つめている。外からの「権威」に目もくれず、「じぶん」を見つめる目をもっている、と。それがイチローの身の裡に内蔵する「外部」だ。それがあってこそ、彼は自身への厳しい視線と己を律する日々の暮らしをかたちづくることができているのであろう。そこが私との決定的な違いだ、と。

 私は、「じぶん」の輪郭を描くことを好ましく思っているが、それを日々の暮らしに持ち込むときに、「厳しく律する」という方向よりは、ちゃらんぽらん、ケセラセラ、テキトーに、流れに身を任せてやり過ごす方へと向かっている。イチローの達成した「偉業」が限定された世界においてであることは、だから私にとっては、イチローというまるごとの存在の「圧巻」として聳え立つように感じられる。「外から与えられた権威」というよりも、彼自身の内側から突き出て聳え立つ偉業というふうに。

 イチローは、私の子どもの年齢である。私の娘婿殿に一郎さんもいる。さっそく私は、「イチローは引退したが、一郎の現役生活は、まだまだこれから。頑張ってね」とメールを打った。「ありがとうございます」と返信があった。仕事の合間にメールを見て、一郎はいそしく返したのであろう。後事を託す世代は、間違いなくそだっている。

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