2019年3月20日水曜日

私の平成時代(8)すべてが一つになる「せかい」


 あるとき、長く宇宙科学に携わってきた大学教授が退官に際して最後の授業を行ったのを観た。そのとき学生の一人が「では、ビッグバンが起こる前はどうだったのでしょう」と質問し、その教授が「わかりません。今の私たちからみると、時間は不可逆的に一方向に流れているけれども、それ以前はひょっとすると、時間が空間的な構成をとっていて可逆的どころか移動可能にも、可視的にもなっているかもしれない」と返したのが、印象的であった。教授は、たぶん、そういう関心を懐いてそれを解明するべく突き進むのが、次世代の研究者なんですよと言いたかったのであろう。


 解明するかどうかは次世代の課題としても、私はその応答がヒトの思索の自在さに思えて、殻を一つ抜け出したような気分を味わった。例の11次元という話だ、と。じつは、ここまで「私の平成時代」ということで、この30年程を振り返って(ということは、とどのつまり、私のこれまでの歩みをある局面で切り取って振り返ることになったが)、「わたし」がいまどこにいるのかを見定めることになった。

 たとえば昨日の《私の平成時代(7)「失われた」のはチャンス》に記したような「チャンス」に、もう私は期待もしていない。近頃日本の政治過程を観ていると、真面目に政治を考えることも嫌になる。諦めというよりも、文字通りTVの画面を通して、あるいは新聞の紙面を通して、何だか別の世界を観ているような感触がする。「もう知らんわ」とでも言おうか。ただ、そこにかつての私自身が経てきた姿をよく見かけるから他人事ではないのだが、でも身につまされることにはならない。誰かの歌ではないが、「♫そお~ゆう~ジダ~イも~あ~った~ねと~♫」と懐メロを聞くような気分だ。

 現実過程としては、国際関係や政治過程よりも、身の回りの人々とのかかわりのほうが、はるかに意味深いと感じる。そこには私自身が浮世離れして過ごしてきたこともかかわっているとは思うが、ヒトって何をよすがに生きてんだろうとか、なぜ生きてんだろうとか、ゴーギャンが考えていたことのように、「どこから来て、どこへ行くのか」という思念のまるごとが、なんとなく全部一つになってわが身に降り注いできているように思えることがある。

 11次元どころか、ヒトのありようすら、「わたし」の窓からみているわけであるから、理解していることの確かさはつかみようがない。いろいろな不可思議な出来事も、信じるかどうかと問われて信じられないと思っても、ないとは言えない。「信じられない」というだけである。でも、三人称の科学世界の客観性が解き明かすミクロの世界の成り立ちが、じつは私の現実存在もありとあらゆる森羅万象も、星も宇宙も同じを出立をして今に至っているという物語りを語るとき、私の身の裡の自然感覚がうずいて、それを好感していると確かに感じる。これは、うれしい。これは、三人称と一人称が一蓮托生であるという証に思える。

 DNAの解析がすすんで、進化的系統図が組み直されたり、より詳細に解き明かされるのも、生きとし生けるものが同じプラットフォームでうごめいて来たことを示して、うれしい。星屑と同じという次元とは少し違うが、それでも八百万の神々の感触が感じられ、わが身の実存と重なるように思われる。こういう感触を持つのは、私が後期高齢者となって振り返る人生の感懐が、なせる業なのか。平成時代の加速的なITやAIの手助けを受けた技術的発展が解明する「せかい」のお蔭なのか。

 そう考えると、デジタル時代のITやAIを謗るようなことはしたくない。だが、経済も科学技術も、それ自体として走り始めているようにみえる。ヒトがまるでゲームに夢中になるように、尽きない興味関心に心惹かれたり、利得の追及に向かう。それは、ヒトがなぜ生きているのか、生きているってどういうことなのかという簡単明瞭なことを、自然に任せていない次元から抜け出したからではないのか。人間は動物化してきているのではなかったか。
 自然に任せてないって、どういうこと? あまりにも人為的、あまりにも人間工学的な計算上の社会設計(アーキテクチャー)によって、実は自分たち自身を檻に閉じ込めてしまっているのではないか。もうそういう地点から引き返せないところに来ているのかもしれない。とするとすでにシンギュラリティに至っているのか。

 あるいは、ヒトの現実のありように疑問を抱くことなく、グローバル経済の流れのままに人類は自家撞着的に別様の「生き物」、たとえばAI研究者のいうような無機物になっていくのであろうか。(おわり)

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