2017年12月14日木曜日
ご苦労なことだ、わが身よ
夜寝ている間は休んでいると思っているが、ただ単に体を横たえているだけ。体も頭も動き回っていると、思うようになった。近頃、睡眠時間が、やたらと長くなった。むろん6時間ほど寝たところで一度は目を覚ましてトイレに行ったりする。起きてもいいのだが、うつらうつらしていると、夢うつつで寝入ってしまい、気がつくと8時間とか9時間、ときには10時間も寝たことになっている。
熟睡しているときにも、体の呼吸器や循環器が働いていることはいうまでもないが、消化器官もまた、昨夜のアルコールを分解したり水分を吸収したり排出したりしている気配を、如実に感じるようになった。つまり、起きているときの「酷使」を恢復して身の平衡を取り戻すかのように、せっせと身の内部で平衡調整作用を施しているのだ。この歳になると、それが(意識にだろうか、身の表層にだろうか)伝わってくる。
若いころはきっと、身(の表層)が気づかぬままに、それらをやりこなす「自然」があったのだろう。ところが歳をとると、その作用処理一つひとつに、身そのものも「力(りき)」を入れなくてはならなくなった。おのずから「表層」に現れるようになった、ということか。
頭の方もそうだ。いや頭が考えているのか、身の深層が感じているのかわからないが、夢もしっかり見る。何だか夢をみながらそれを操作しているんじゃないかと思うようなこともあるのに、起きてみるとハテ何の夢だったかと想い起せない。うつらうつらしているときは、寝る前に読んだ本に触発された「おもい」が揺蕩うように前頭葉を流れ、そのわが身の「おもい」を批判するような言説が取り交わされていたりする。誰と誰が取り交わしているのかわからないが、わが身がどこかでそれを、ウン、ナカナカイイコトヲイッテイルと得心している感触を得たりする。そしてこれも、目が覚めてみると、ハテなんだったかと「おもい」を凝らさなければ思い出せない始末でもある。
寝ることは休むことというのは、意識世界からの表現である。じつは寝ている間も、身というか、頭も体も、動きを停止してひっそりしているわけではないようだ。むしろ、意識と別の身の深層世界が、これを好機としてせっせと、意識世界のやらかした後始末をしているのではないかと感じている。そうか、こういうのを動的平衡というのかと、自家撞着的平衡にニヤリとしている。歳をとり、身が心身ともに一つになって、感じとれるようになってきたのか。そして、目が覚めている間の意識世界と寝ている間の深層世界とがともに表層に浮上してきて、そのあげくに身と心が別れて魂が蒸発して彼岸へいくのかと思うような、日々の感触に心打たれている。
いい事かどうかはわからない。思い出した時にあまり気色がいいとは言えない夢をみていることもある。昨日見たやつは、脚の裏の皮膚が、夏の日焼けした肌のように薄く剥けていく。指をかけ薄皮をぺろりと剥いている心地よさというか、面白さの感触もある。硬かった足の裏の踵の部分が薄皮をはがすとともにやわらかくなり、おおっ、これはいいぞと思うのに、いつしか厚く剥けてしまって段差が生まれ、それに爪をかけるとぼろりと踵がカケラになって落ちてしまうようなユメであった。わが深層が何を調整してこんな夢をみるのかわからないが、昨日の下見の脚の使い過ぎに警告を発しているのだろうかと、思うともなく考えている。ご苦労なことだ、わが身よ。
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