2017年12月19日火曜日

何を気に留めているのか


 又吉直樹『火花』(文藝春秋、2015年)がやっと図書館から届いた。なんと刊行してから2年近くかかっている。芸人・又吉が芥川賞を受賞したと評判になり、メディアは作家・又吉を持ちあげようとしたが、当人は芸人ですと本業の矜持を保っていたのが印象に残っていた。だが私の悪い癖で、「時の人」的な評判に迎合するのが嫌なものだから、わざわざ図書館に予約して、順番が回って来るまで待つことにした。そのうち、予約したことも忘れていた。そして本よりも先にTVドラマ・『火花』が目に触れることになり、そうか、そんなことを書いてんのかと本を読んだ気になっていたから、図書館から届いても、急いで読もうとは思ってもいなかった。ところが先に手に取って読み終わったカミサンが、TVドラマでは(なんやろ、面妖な話)と思っていたのに、本を読むと(芥川賞をもらうに値するわ)と思うようになったという。そうか、読んだ気になってはいかんのだなと私も手に取ることになった。ところが私の読後感はと言うと、TVドラマは、本の描いていた人物の「痛さ」をうまく表現していたなと、まず感嘆した。このカミサンとのずれはどこから来るのか。


 小説の方に、次のように表現されている部分がある。

《「なあ、さっきから俺がコーヒーカップを皿に置く時、いっさい音が出えへんようにしてたん気づいてた?」と神谷さんが言った。
「気づいてましたよ」
「ほな、言うて。やり始めたものの、お前が何も言わへんから、やめるタイミングなかったわ」と神谷さんは掠れた声を出した。》

 TVドラマは、全編、この一節の繰り返しともいえる「全身漫才師」なのだ。いうまでもなく映画「全身小説家」の井上光晴と重ねて、そのように受け止めている。作品を書くだけが小説家ではない、日常の存在のすべてが小説家だと。それを小説の『火花』は、神谷のことばとして、以下のように表現している。

《漫才師である以上、面白いことをすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん。だから、お前の行動の全ては既に漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない、純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまりは賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん》

 TVドラマは、この感触を実にうまく表現していたと記憶している。だからカミサンは、肌合いが合わないように感じて(面妖な話)と受け取ったのであったろう。私はそれを(「痛さ」を上手く表現している)と、好感を持って受け容れていた。この、カミサンと私の受けとめ方の違いは、ドラマへの入り込みの度合いの違いとも言えるかもしれない。カミサンは(たぶん)ドラマの世界に身を浸している。すると、神谷のいう「全身漫才師」という実在は、少し離れたところからみている分には面白い存在だが、すぐそばにはいてほしくないけったいな人物に映る。(面妖な)とはそういうことだと、私は理解している。ところが私はと言えば、ドラマを解析的にみている(と思う)。つまり一歩引いて(あるいは自分を高みにおいて)みている。だから、セリフの意味を評価し、そのセリフが描き出そうとしている人間観や世界観や社会観を(我田引水的に)読み取ろうとしている。ドラマと視聴者との位置関係のどちらが(誰にとって)いいのかは、わからない。ドラマ制作者にとっては(たぶん)カミサンのような視聴者を想定していると思う。(面妖な)という違和感を引き出すことこそが、「狙い」なのかもしれない。私のような観方をするものは、「全身漫才師」ではないが「全身徒然草」くらいには自分のことを(世界に)位置づけている。つまり世界にすっかり生活者として身を置いていながら、自身のありようを常に世界にマッピングして表現して外化する作業を習いとしているものにとっては、(面妖)と受け止める違和感こそがエンターテインメントの神髄とも思っているのである。

 小説『火花』では、次のように世評・世間とのずれを浮き彫りにする。

《平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?》

 この、世の中の(普通の人の)感性との緊張と間合いの取り方こそが、根幹にあり、それはすなわち「全身漫才師」の感性やリアリティは、足場を平凡に置きながらも非凡を志向し、といってつねに自己否定を視界に入れて(世の中に対して)問題提起的に存在しなくてはいられないありよう。それに対する、動的平衡の心情。現実存在としては(中空に浮くような)心もちを抱いている。その心裡が「全身徒然草」と通底している(と私は思っている)。

 ドラマというのは、コトの進行速度が速い。セリフもストーリーも一瞬にして通り過ぎ、感触だけを残して(ことに高齢者の胸中では)消えていく。本を読むと、そのセリフの一つひとつが、腑に落ちるまで自分の速さを保つことができる。描き出そうとしている世界がそれだけ、わが身の肌合いに寄り添うように近くなる。どちらが(世界をみている者にとって)いいのかはわからないが、カミサンの好みは後者にあるんじゃないか。

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