2017年12月24日日曜日

人の昏(く)れ方


 中原清一郎『人の昏れ方』(河出書房新社、2017年)を読む。図書館の「新刊書の棚」におかれていたのを手に取った。表題が気にとまったからではあるが、「2017年11月30日初版発行」とある。こんなかたちで読むのを出版社は嫌がるだろうが、そんな機会でもなければ、たぶん手に取ることもなかったと思う。


 4編からなる。読みすすめて2章目に読み移ったとき、なんだ短編集かいなと思った。1章とほぼ関係がない。かろうじて写真に身をいれているという共通点があるだけ。主人公の名前が同一ではあるが、その二つの章に必然性も関連性も感じられない。ことに2章の人物像の描き出し方はとても未熟に思われ、途中で読むをのやめようと思ったほどだ。

 3章を読みすすめて、1章との関連性が浮かび上がる。そうして、1章から順を追って、写真に志を立て、プロの報道カメラマンとしての鳥羽口に立ちながら会社組織の歯車になることを肯んじえない気質ゆえに干され、機会を見つけて戦場カメラマンとして海外に身を置いてやはり悲哀を味わうという、「連作」の構図が見えてきた。つまり、起承転結の四章立てなのだと気づいた。

 4章でやっと、文字通りこの表題に相当するモチーフに出合う。あくまでも「他人の死」にカメラのファインダーを通して向き合ってきた主人公が、はじめて自らと重ね合わせて「人の死」というものをとらえるところに到達するという位置づけ。最後の、この4章が書かれたモチーフには、興味を魅かれる。でも、読んでいるものにとっては、まだこの著者は作者という高みに立って登場人物を差配していて、登場人物がおのずからなる必然性を内包して動き回る地点にまで達していない。ストーリーテラーという作家の顔が消えない。上手い作品というのは、語り部がいつの間にか姿を消して、語られることが独り歩きしているように読者の胸中に飛び込んでくる。下手な作品というのは、語り部がいつまでも姿を現したまんまで、物語りが終わる、とでもいおうか。

 たぶんそのせいだ。この本の末尾に「あとがき」が差し込まれていた。この掲載四章のうち、第二章は、他の三つの章と書かれた時期が30年も離れている。その言い訳もあって「あとがき」が挿入された。というか、第二章を活かそうとして、他の三つの章が書き下ろされたともいえる。この作家の、若い頃への執着が、歳をとった今となってふつふつと蘇ってきたような、気色の悪さだ。第四章だけの「人の昏れ方」を詰めていった方が、遥かに作品の完成度は高かったように感じられる。

0 件のコメント:

コメントを投稿