2017年12月27日水曜日
静かな、のんびり歳末
年末のルーティンワークを一つ、昨日片づけた。年賀状だ。じつは古いパソコンに入れて使っていた宛名書きソフトが、去年、作業途中でフリーズしてしまった。あとは手書きでしのいだのだが、その後にプリンタが壊れ、新しいプリンタがWIFI仕様で古いパソコンと回線をつなぐ受け口がない。そのことに気づかないまま師走を迎え、いざ印刷しようという段になって困った。本文はつねに使う文書ソフトで作成していたから、また手書きでもいいのだが、この際思い切って葉書ソフトをあらためて購入した。ノートパソコンに入れて作動させる。住所も全部、あらためて入れ直す。それはそれで、たいした作業ではないが、去年の年賀や喪中はがきをみながら去来する思いを一つひとつ吟味して、私の分とカミサンの分をやり終えた。
誰であったか(たしかゴリラの研究者だったと思う)、人の脳の容量が向き合える知人友人の数は150人と言っていた。入力してみると、年賀の付き合いは二人分でほぼ150人。たいした作業ではないというのは、そういうことだ。もちろん付き合う人数と同じではない。年賀などやりとりしないで、毎週顔を合わせていたりメールのやりとりをしている人もいる。逆に年賀の方は、もう十年以上も会っていない人もいて、儀礼的な挨拶はやめようかと思ったりする。こちらが出すから返事で来るのか、互いに見切りがつけられなくて、ずるずると「ご機嫌伺い」をしているだけなのか、わからない。まあ、どちらでもいいし、ほら、生きてますよと知らせるつもりくらいでもいいかもしれない。そんなことを考えながら、年を越す作業をした。
窓を拭く。南側を拭いたら、西側と北側は後でいいかと放り出してしまった。ツカレタというよりもメンドクサイって感じ。思えば50歳代のころは、窓ふきだけでなく、障子の張替えも、年末仕事のルーティンワーク。いつの間にやら、破れていないからいいか、と手を抜くようになった。車の掃除も、自分でやらずに、ガソリンスタンドの洗車機に任せて済ませている。つまり、体力が及ばなくなるというよりは、気力がなくなって、世間の商業過程に回すようにしているってことですね。むろん年のせいにしている。
そうか、こうやって緩やかに老化が進むってわけだと、何に得心しているのかわからないが、自己批評をする。自己批判はしない。もちろん反省もしない。古希を過ぎてからは、己の欲するに従い矩を超えずだと、いささかも前向きにコトを始末しようとしない。そういうクセがついてしまった。まして今年は、後期高齢者になった。何はばかることがあろうかと、威張るわけではないが、胸を張っている。ばかだねえ、こんなことで、と心中どこかに潜む私がツウィートしているが。
「予約本が来ている」と図書館から報せがあった。取りに行く。歩くのはよして自転車で15分、今日は北風が強い。浦和の駅周辺は人手が多い。駅舎と周辺の改装が済んでにぎわってはいるが、大宮ほどではないってところが、私は好きだ。ちょうど、ブダとペスト、京都と大阪。山の手と下町ってところか。山の手の品の良さが好みというのではなく、喧しいところが苦手。そういう自身の好みも、歳をとるにつれ強く表出するようになったのかもしれない。銀行によってお年玉の「新札」を手に入れる。正月には孫たちに爺婆として振る舞わなければならない。その準備だ。
明日から三日間、奥日光に出向く。雪の中を歩き、本を読み、気が向けば孫とも少しは付き合わねばならない。高齢化のせいにして、いつになく静かな、のんびり歳末である。
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