2017年12月23日土曜日

自身との交信が途絶える原罪からの解放


 20日に山を歩いた。ほとんど疲れは残っていない(ように思えた)。昨日(22日)、ストレッチをやっていて気づいたこと。リンパの流れをすすめるために脚の太ももを押さえたとき、奥の方に軽い痛みが走る。ああ、これは疲れがたまってる。ふくらはぎのリンパの流れもやったときに、奥の筋の方に疲れが残っていると思った。そうなのだ。疲れを感じるのは恢復するときと思って来たのは間違いないが、こんな形で奥の方に溜め込んでしまっているとは思いもしなかった。


 歳をとると、いろいろなことが表に現れなくなる。疲ればかりではない。喜びも悲しみも鈍くなる。(たぶん)感じていないのではない。裡に溜まる。籠ると言ってもいい。外からの刺激に反応して表出させてこそ、コミュニケーションも保たれる。(たぶん)人とのコミュニケーションばかりでなく、身の外部とのやりとりがあってこそ、自身とのやりとりも行われているのではないか。どこかの生物学者が言う「動的平衡」というのも、自身とのやりとりの「かたち」を表現したものだろう。つまり「にぶく」なるというのは、自身とのコミュニケーションすら行えなくなることを意味する。これは、外から見ていると(たぶん)「閉塞」と呼ぶであろうが、自身が閉じているという自覚もないのだから「ひきこもり」ですらない。認知症というのも、そういう外部との交信がまだら模様に途絶することを指しているように思う。

 歳をとるということは、自身との交信が衰えることである。ストレッチや、リンパ体操、あるいは筋力トレーニングという外部からの意図的な刺激を与えることで、はじめて途絶えていた「交信」が意識の上に現れる。衰退しかけていた「交信」が一瞬回復する。

 諸事万端について、そのような意識的な刺激を加えなければならなくなっているのが高齢化だとすると、「めんどくさい」とか「まあ(いますぐでなくても)いいか」と後回しにすることも、得策とは言えない。ものが壊れたり、失われたり、思うように作動しなくなった時などには、金をかけてでも外部からの刺激を受けられるように、手立てを講じることによって、裡なる衰退を外から補うようにしなくてはならないのではないか。

 ということは、次のようにも言えるか。ヒトが人になるはじまりを、エデンの園でリンゴを口にするときとすると、すなわち、外部からの眼をもって己をみる(羞恥心を持つ)ときとなる。キリスト教に謂う原罪である。だが高齢化によって外からの刺激が裡に籠ったままになるとは、すなわち、人がヒトに還ることともいえる。原罪からの解放であり、エデンの園に回帰するありようである。自然の一存在のヒトとして生まれ落ち、その自然から離脱して人になり、ついにはヒトに還るというのは、理に適ったことと思える。ヒトは死してはじめて菌類によって分解されて土に還るのではなく、生きているときすでに、自然存在に還るべく「分解」がすすんでいる。それが老化であり、いち早く解体の進むのが原罪という人の持った軛というのも、自然と同一化する(生まれ落ちて以来、長年の)羨望の実現である。

 そう考えると、実存というのも、じつに上手くできていると思う。

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