2017年12月25日月曜日
司法の独立性を担保する「権威」とは
このブログの一年前の掲載記事が、自動送信されてきます。昨年の12/24には《市民社会の「法」の精神の原型》と題して、フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』(酒寄進一訳、東京創元社、2016年)に関する追記を記しています。詳細は省きますが、ドイツの市民も参加する「参審制」が、法制自体を疑う精神を持っていることに(私が)感嘆したことを述べています。
法制自体を疑う精神というのは、法が社会的な道徳規範と矛盾なく構成されているわけではないことをも見極め、判決に際して(法制に)批判的に組み込むことをしているという事実です。つまり、司法というのが、そのような視点を持ってこそ、立法や行政から独立した(市民社会に基礎を置く)「権威」をもつことができると思うからです。
ここでいう「権威」とは、法とか法制に対して批判的に対峙する姿勢が尊重されているということです。立法も行政の長も(選挙制度を通じて)市民的な評価にさらされます。だが司法は、たとえば立法府の代議士から「頭がいいだけで裁判官になったものが、代議士のつくった法に違憲を申し立てるなど烏滸の沙汰だ」と非難するのを耳にします。だから(遅ればせながら)裁判員制度を作ったともいえますが、日本のそれは「司法の許容する範囲において」認められています。そうして今の日本の司法は、ほぼ検察(という行政)と一体であるかのように振る舞っています。
今日(12/25)の「水俣病審査見通し漏らす」という朝日新聞のトップ記事も、それを表しています。また、先ごろ最高裁が出した「美濃加茂市長の収賄事件」上告棄却裁決もそうです。検察の訴追に対する有罪判決の割合が97%という高率であるという数字を出して司法が行政に追随しているというのではありません。今月の11日に最高裁が出した美濃加茂市長の収賄事件に関する「上告棄却」の判決は、高裁の有罪判決を支持したものですが、その高裁判決は驚くほど市民の常識を破るものでした。詳しくは、当事案に関する名古屋地裁の判決と名古屋高裁の判決を(較べながら)ご覧いただきたいと思いますが、(別の事件で検察と司法取引をしたと思われる)会社社長の「贈賄供述」だけが「自供」として信用され、贈収賄が行われたという場に立ち会っていた人の(そんな事実はみていないという)「証言」は採用されず、贈った側が第三者にその旨述べていたということが採用されるという(検察側の)一方的な証言だけで構成されたものでした。どうしてそういうことが堂々と進行したかは推測するしかありませんが、検察が起訴したうちの有罪判決は97%という検察―司法の一体化というほかありません。(司法取引をしたと思われる)形跡を隠蔽する統治の一体性を保つために出来した裁決と言えます。つまり「権威」によるのではなく、統治機関としての一体化によるなんとも情けない事態だと思います。
「判決が確定するまでは無罪」とか「疑わしきは罰せず」というのは、単に被疑者の人権保護という趣旨だけではありません。警察や検察という行政や(さらには法制という)立法への批判を担保することによって、司法の独立的「権威」が保障されていると考えるからです。その視点を欠いて、法曹の立法・行政・司法が国家支配をめぐってタッグを組むことは、もはや民主主義とさえ言えないものだと思います。とうとう最高裁も、そこまで腐ったかと私は思います。いや、いまさら何を言うか。昔から最高裁は行政と一体になって統治機関としての一体性を保ってきたではないか、という方もいよう。そうですね。
ドイツの司法がもっている独立的「権威」は、ドイツ市民社会のかたちづくってきた市民的論理の蓄積によるものだと思います。「蓄積」というと、すぐに歴史的重みだけと勘違いをされますが、そうではなく、ナチスも含め、自らの歩んできた(間違えたことも含めて)航跡を一つ一つ丁寧に総括して身につけてきた「蓄積」です。ドイツ市民がカント的哲学を常識としていると一年前に書き記しましたが、そういう「文化的伝統」にこそ、その市民社会の培ってきた誇らしさが宿るのではないでしょうか。
日本には日本の文化的伝統があると思いますし、近代市民社会としての歩み方には、それぞれの道筋があると思いますが、果たして日本のどこに、その誇らしさを見つければいいのか、つい疑問に思ってしまうような、昨今の司法と思え、残念でなりません。
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