2017年12月1日金曜日

ひぐらしの十年


 今朝目覚める前の半醒半睡のなかで、師走になったという時節の移ろう感触とともに、そうだ、ブログもこれで十年経ったという時の移ろいが浮かんできた。ブログのはじまりのころからのテキストのファイルを開いていみると、冒頭に二首の歌が記してあった。

   あひみてののちのこころにくらぶれば むかしはものをおもはざりけり
   しのぶれどいろにでにけりわがこひは ものやおもふとひとのとふまで


  この二首を記したのは、たぶん、五年ほど経ってからではなかったろうか。ブログを書くということをつづけていると、わたしはなぜ、ものごとを記すのかという自問が、つねにつきまとう。そのときふと胸中に浮かんだのが、上記の二首。同じ時ではない。ぷくりぷくりと湧き上がってきたものを拾ったような感じだ。

 ブログをはじめようと思ったのは、自分のしていることを突き放してみるためではあった。メモのようなものだ。じつは、定年で仕事を退職する60歳のときに、「五年日記」というのを買って、つけることにした。「日記」というのは幼いころから苦手で、いつも三日坊主であった。母親が正月になると「博文館日記」を買い込んできて、息子たちに手渡した。受け取ってつけ始めてはみるが、文字通り三日まで、あとは真っ白なまんまに、捨て置かれていたと思う。どうなったのか気にしたこともなかった。だが仕事を離れて毎日が日曜日のようになってみると、わが身が揮発してしまうような気がした。いやじつは、退職する前にそうした予感がわたしを襲い、「五年日記」を買いこんできたのだ。

 で、どうであったか。日々の書き込む欄の大きさは、たぶんこのブログの2,3行程度であろう。それこそメモ風に、何をした、どこへ行った。誰から通信があった、どこで話したと、とりとめもないことを書きつけている。旅に出たときは、帰ってきてから、三日分とか一週間分とか、ときには半月分ほどをまとめて書き込んだように記憶している。そうして一年経ってみると、去年の動静を読み返しながら、今年のそれを書き込む。だからどうってことはない。去年のその時点で抱いた感懐を想起できるかというと、すっかり忘れている。むしろ、そのことに驚いていた。でも、それほどの努力をすることもなく、五年日記をつけ終わった。

 それはしかし、じぶんの抱懐した思いを率直に書くことをしていない。行動のメモ。本を読んだとか山へ行ったとか誰それと酒を飲んだという事実の記録。それだけ。むろんそれだけでも、後日読み返してみると何某かの思いをもって右往左往していたことはわかる。ま、そんなものよ人生は、と言えば何だか達観したようにみえるが、生来の無精が、のんべんだらりと寝そべっているだけだ。

 文章を書かなかったかと言えば、そうではない。一冊の本の編集をしたし、カルチャーセンターの講師を引き受けて山のガイドも7年間おこなった。大学の非常勤講師を頼まれて、これも70歳まで面白く勤めさせてもらった。そのときには毎週何十ページというプリントを作成してやりとりをした後で、学生さんから返ってきた「リアクションペーパー」にコメントを加え、次の週の「場外乱闘」と称してプリントにしてやりとりもした。これはこれで面白かったし、自身の、本を読んだりものを考えたりするインセンティヴになった。

 その間に思ったのだが、わたしはどうも、おしゃべりではあるが口舌の輩ではない。文筆の、エクリチュールの軽輩だと思い当たった。と言って作家気取りでものするほどの力もない。だが、書くことによってじぶんの新しい局面と出逢うってことがある。書いているうちに、これまで気づかなかったじぶんに対面している。そうか、人ってこんなふうに勝手に変われるし、変わっているし、変わることに気づくこともできるんだと気づいたってわけ。

 五年経って。それには、事実のメモだけではだめだ。本を読んでも、一つひとつ自分が抱いた感懐を、気づいた「せかい」のことや「じぶん」のことを書き落とさなければ、それはそのまんまどこかに蒸発してしまう。そう思って、65歳(つまり、前期高齢者)になったとき、ブログをはじめようと考えた次第。でも初めのうちは、事実のメモ程度にしていたのだが、だんだんそれも変わってきて、いまはご覧の通りの、ゴミのようなエクリチュールのおしゃべりになっている。

 でもみなさんは、十年さかのぼって読むことができない。2014年の5月で私のホームページを扱っていたプロバイダがブログの運営を中止したために、現在のところに引っ越さなければならなくなったのだ。そういうわけで、3年半程度の分しかご覧いただけないが、ま、古いのを読んで面白く思うのは、本人だけ。物書きというほどではないが、エクリチュールの輩というのは、いくらかナルシズムの気があるのかもしれないね。ほんとうは人に読んでもらって、面白かったと言ってもらいたいのに、そう口にするのは面映ゆい。とどのつまりは、わが姿の一部を外化したものに目を通して、ふむふむなるほど、悪くはないなと自賛したいのかもしれない。

 むかしはものをおもはざりけり

 これはいつも思い当たる自戒であり、自尊であります。これからもお付き合いくださいますよう。

0 件のコメント:

コメントを投稿