2017年12月4日月曜日
漂流する小舟に乗っているような気分
ここんところ晴れがつづく。いよいよ関東地方に乾季が到来したようだ。寒いことは寒い。だが陽ざしが当たり、気持ちがいい。ぶらぶらと歩いて買い物に行き、図書館へ本を返す。行くときは陽の当たる処をたどっているのに、帰るときには日影を選んで歩いている。土日とあって、親子連れが通りににぎわい、若い人が連れ立ってどこかへ出かけている。
運動着の中学生がぞろぞろとすれ違う。何か部活動の練習試合でもあったのだろうか。短パンに半袖とかジャージーの上を羽織っていたりする。若いってのはそれだけ発熱量が多いのだろうか。それとも彼らの身体は、ヨーロッパ人みたいになってきつつあるのだろうか。ヨーロッパの山岳ガイドは、日本の山屋と違ってものすごいパワーだ。半袖半ズボンは当たり前、案内される私たちが高齢者であるのに、その歩き方が遅いと言って置いてけぼりを食らわせる。体格や年齢、力量の違いを斟酌しない。とんでもないガイドたち(と私は思っている)。日本の中学生も、長年の食生活の変化によって変わってきているのかもしれない。少し動くと暑くって仕方がないのか。羨ましい。
その程度なのだ、年寄りの休日というのは。我が身を振り返ってみると、な~んにもない。一日の三分の一以上を寝て過ごし、新聞や本を読みパソコンにむかってよしなしごとを書きつけ、たいていはぼーっとして過ごす。お昼になるとTVをつけてうどんを湯掻く。TVの画面は日馬富士と北朝鮮のことばかり。日馬富士のことに至っては、彼の動静を絵に収めようと報道陣が出張ってカメラを向けマイクを差し出して記者が何やら大声で問いかけている。そんなことをして何になるのだと、多数の報道陣の若い人たちのエネルギーが放散される社会的意味を考えていたりする。聞いてみたことはないがたぶん、需要があるからこういうことをするのだと心中思っているのであろう。むろんプロデューサーやディレクターは、その画面を観たがるTV視聴者の「需要」をイメージしているのであろうが、観ている視聴者としては(またかよ)と思ってチャンネルを変える。だが、そこでも同じようなことをしているから、とどのつまりスウィッチを切る。TVというのは、放送者が勝手に想像した視聴者の欲望にウケるように番組を作成したり構成する。でもそれは、放送者の(欲望の)イメージに過ぎない。視聴者はその(欲望)を茫茫と受け容れている。
それに比べるとTVドラマはネタが違っているからまだよいほうか。でも観ていると、ドラマツルギーというのか、感動を誘う手管が同じに思えてくる。苦境に立ち、これはもうダメかと思わせておいて、えっ、そんな手があったのと驚かせて勝利の図式に持ち込むというドラマは、これでもかという感動という名の欲望の繰り返し。繰り返しが悪いというのではなく、繰り返しても少しも満腹感に至らない欲望の連続的不満足の持続。欲望の肥大化と社会学者は言うのであろうが、「肥大」にはなっていない。繰り返されていると、感得する欲望がだんだん貧相に思えてくる。これは自分が貧相になることじゃないか。
興味関心もものごとに対する意欲も欲望のうちと思っているからいうのだが、外からの情報や刺激を受け取っているだけでは、欲望は充たされない。なぜそれに心揺さぶられ、この身が反応しているのかと問うて、外からの情報や刺激を吟味し消化吸収してのちにはじめて、欲望は次のステージに上がるのではないか。一人の人の身の裡では、たぶんそれが精一杯。それ以上の欲望の次元は、もっと多数の社会的次元で考えなければ考察できないことのように思える。ちょうど、ハチがハチの巣をつくり、アリがアリ塚をつくるように、一匹のハチやアリが行っている振舞いとその社会集団がかたちづくるものとは、別様の構成論理を為している。だから、それぞれの立場における人が(これと考えて)振る舞うことが社会集団全体の(それがいいと)考えることとは齟齬することは、長い目で見たら当然なことだ。TVのドラマツルギーも情報の提供も、人類史の壮大な「ムダ」にかけている姿かもしれない。でも、一匹のハチやアリの振る舞いなくしてハチの巣もアリ塚も形を成さないことを思えば、私たちがつくる社会の好ましい形を想定してその社会をかたちづくろうとすることは、その失敗をふくめて、結局長い人類史が審判することになるのではなかろうか。「好ましい社会」というのが、どのようなものかも、ひとつに集約することは難しいのに、選び取って突き進む方策は、とりあえず(今の国民国家が支配的な単位としては)ひとつしかない。
とすると、今の世界のさまざまな径庭をたどってきた社会をみて私たちがまず考えるべきことは、好ましい社会とはどのようなものかをイメージし、できるだけ真摯にそのイメージを(異論をふくめて)共有することしかない。当面の北朝鮮の脅威にばかりとらわれて、人類史的な審判に耐えうる社会のイメージを描き損ねては、舵を持たずに海の流れに漂流する小舟に乗っているような気分になる。
ソファに横たわって本を読むうちにいつしかうとうととし、そんなことが頭に浮かんだ。
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