2017年12月17日日曜日

これぞ「自然(じねん)」の神髄


 今朝の新聞を開いて、高村薫の『土の記』が大佛次郎賞を受けたことを知った。この作品では野間文芸賞も受けている。大佛次郎賞の選考委員五氏が選評を書いているのを読んで、私の感懐と少し違うことを感じた。

 土の記憶か土の記録としての「土の記」。記憶も記録も、誰がいつどこでということを抜きにしては語れない。言葉は人間のものだ。そういう意味では、土と向き合う人が主体となって土の記憶を感知し、土の記録を蘇らせる。土が主体と考えると、その記憶や記録は自然(しぜん)そのものだが、人が介在することによって言葉となると、自然(じねん)となる。自動詞と他動詞が混ざり合う境界の領域をどちらが主体なのか判然としない、そんなことどちらでもいいではないかと言いたいほどに、渾然一体となって露出する。「土の記」とはそういうことだと思いながら読みすすめた。


 インタヴューに応えて高村薫が「……人は生きているだけで十分なんだということ。人間は愚かしいことも含め、生きているだけで美しい……」と述べているのが、的を射ていると私も思う。いやじつは、「美しい」も余計なのだ。美しいか惨めか、愚かしいか賢いかなどは、どうでもいい。「じゅうぶん」というのは、そこに存在することが実存・実在の充足感に結びついている。それがすべてだということを、この歳になって、思う。それは、自然(しぜん)と自然(じねん)がひとつになって、ここにあるとわが身が受け止めている。高村薫(をインタヴューした記者)は「命の喜び」と記しているが、そういうと語弊が生まれる。土も石も、大地もそこを流れる水も、ことごとくがなべて生きているとみれば、「命」といってはばかるところはないが、無機質のものもまた、「かんけい」のなかで息を吹き込まれ、「自然/しぜん/じねん」としてわが身とかかわりわが身を包む。こうして人は、自然存在として土を耕し、水の管理をし、そこに残る記憶と記録を胸中のイメージや言葉にして、実在してきた。

 『土の記』の上巻を呼んでいるとき私の心裡は、ざわざわとしたちょっと不快ともいえる毛羽立ちに襲われた。昔の記憶が身の裡に甦って来たのだ。疎開していたときの田舎の泥壁のような感触、揺れる肥担桶から零れ落ちる糞尿の臭い、稲田を吹き渡る夜の闇の風の響き、蕭蕭と降る雨の視界を遮る烈しさと恐ろしさ。こうした「自然」の感触が、何をどうしていいかわからぬままに埃まみれになってそこにある恐ろしさとして身の裡に湧き起ってくるように思った。

 ひとつ、そうだ、私たちは今、すっかり「自然」を忘れて暮らしている。人工的な与件のことごとを「しぜん」と感じて、不思議と思っていない。わずか75年生きてきただけで、すっかり私の自然感覚は廃れてしまった。いやそうではないのかもしれない。若い人たちはそれを、廃れたというよりは発展したと呼ぶかもしれない。体の内奥から呼び起こされた私の「しぜん」は、「不快ともいえる毛羽立ち」と感じている。すっかり人が変わってしまったと、別のわが身が声を荒立てようとしている。

 選考委員の鷲田清一が「どこにでもいそうな人たちのどこにでもありそうな思いと出来事が、まるで絨毯のような緻密さで描きこまれている」と表現した後につづけて、「それがかぎりなくリアルに迫ってくるのは、逆説的にもその意識の輪郭があいまいだからだ」と「不快な毛羽立ち」の根源に言い及んでいる。自然と一体になった人の意識に違和感を覚えるこのわが身(のリアリティ)は、いま一体、どこにいるのだろうか。「自然(じねん)」の神髄は、そう心地よいものとは限らないところに降り立ってから、再構成されなければならないのかもしれない。

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