2018年8月10日金曜日
隠されている鏡の背面
暑さが戻ってきた昨日、テンギズ・アブラゼ監督『祈り』(ジョージア映画、1967年)を観る。「祈り三部作」の第一部という売り出しだから、この一作を観ただけで評価を決め付けるつもりはないが、まるで象徴的な物語の劇画をみるようなつくり。モノクローム、観ている私の脳裏に「戦艦ポチョムキン」という映画が思い浮かんだが、ポチョムキンほど登場人物の内面は描き出されていない。
この映画のチラシには「19世紀ジョージアの叙事詩をもとに、モノクロームの荘厳な映像で描いた作品」と銘打っている。キリスト教とイスラム教のジョージアの辺地における土俗宗教的対立、その先端にいる英雄の、敵対するものへの畏敬の振舞いを嫌忌する土俗の反応が主題なのであろう。1967年という時代に置いてみると、東西のイデオロギー的対立の双方に対する批判を、もっと根源的な地平においてみてとれという問題提起であったろうか。だが当時すでに、そうした論題は哲学的次元で「近代批判」としてとりだされていたし、政治的次元では社会帝国主義批判として繰り出されていた。「平和共存」という和解として米ソの対立さえも緩和に向かうかと思わせる状況にあった。
その東西対立の根柢に、土俗宗教的対立次元を置こうとしたのであろうか。それにしても、映像がどうしてこのように劇画的なのか、わからない。内面の動きを目に見える外形から描き出そうというスタニフラフスキーシステムの踏襲なのかわからないが、人の動きがぎこちなく象徴的理解を求めているように思え、面倒な映画だと思った。もっと深く読めば、ぎこちない動きは「原初」を意味し、「和解」へ容易に達しえない、目に見えない内発的な「何か」に阻まれているぞという問題提起だったのだろうか。つまり、世の初めから隠されていること、鏡の背面が(私たちの身に刻まれて)あるのだぞと提示していると読むと、自己省察的な視線へ向かう。だがこれは、この映画の提示なのだろうか、それとも私の勝手な推量なのだろうか。
叙事詩というから、観るものは観るものとして勝手に受け止めればいいというわけでも無かろうにと、今の時代に日本で鑑賞する私は、思っている。「古代の叙事詩のオーラを醸すこの三部作には歴史には残らないエモーションが刻み付けられている」と島田雅彦は称賛のことばを寄せている。たぶん岩波映画も、この言葉に代弁させているのであろうが、この「歴史には残らないエモーション」とは何を指しているのだろうか。
ま、三部作だから残りの二部作、4時間半ほどを観なければならない。一挙にこの二つを観るのは、できるだろうか。こういう面倒に、ぼちぼち我慢できない体になりつつある。
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