2018年8月3日金曜日

異常が平常になる臨界点


 今日も炎暑。37度と最高気温を数値にするが、35度と聞くと、おや涼しくなったと思うほど、身体が馴染みはじめている。なにしろ、こういう暑い日々が、梅雨明け以来、ここ一カ月以上続いている。山に入って歩いている方が、汗はかくが、心もちは涼しい。じぶんの身体が動き、その熱が汗に変わるというのは、動的平衡というか、内と外が響き合って達成感にもつながる快感をともなう。だが、平地にいるときのこの炎暑は、ことごとく外的な熱が取り囲み、静かに暮らしている私に襲い掛かる外圧としか感じられない。相互の「関係性」に組み込めない。


 自然というのは、もともとはそういうものかもしれない。人の(かかわろうとする)意志が加わって初めて、(私にとっての)相互性が生まれる。もちろん言うまでもないが、相互性といったからといって対称性ではない。自然の(私への)無関心と一方的で、非対称的な外部。圧力。この圧力を「贈与」と言っていた哲学者がいたな。私の関心は「贈与」をわが身におよぶ「恩恵」ととらえる身勝手な解釈か。

 平常というのは、人がその自然に慣れ親しんでいる身体的表現。異常というのは、馴染のない自然との接触への違和感。「経験したことのない」この暑さも、今年限りのことではなく、来年も、再来年も、同じようにやってくる気象に思える。昨日の新聞に、「空気中に含まれる水分の蒸発量が多くなっているから、集中豪雨などが起こる」と解説があり、「(化石燃料の消費割合が減っているにもかかわらず)大気中のCO2が減らなくなっている」のを「樹木がCO2を吸収するのにも限界があるようだ」と記してあった。人の活動が自然の変化を促し、それが人へと来襲するのであってみれば、これはまさに相互性。動的平衡のベクトルが向かうところ。「身勝手な解釈」ではなく、人も自然だという自然観と見事に合致する。

 ただ一点違うのは、人も自然というのは、人は自然の一部であって自然を左右する存在ではないという非力さの認識があった。だが今の人と自然の動的平衡というのは、人の活動が明らかに自然を左右し、自然の人が平常と感じてきたことを異常と思わせるほど突出させ、いずれそれが臨界点に達するところへ来ているといわねばならなくなっているのであろうか。臨界点という言葉は、それを超えると後戻りできない事態を招来する響きがある。

 未だに私などの自然観では、自然は絶対的な大きさと人の活動とは無縁の運命を生きている外部性を持っている。だが欧米の識者たちは「持続可能な」という修飾語をつけることによって自然をコントロールできると考えている。人が生存していてこその自然と、人類がいなくなっても地球はその生命活動をつづけていくに違いないという「自然」観とは、目のおきどころが違う。どちらが正しいかという次元ではなく、どうして私は、わが身を離れて地球の命脈をみているような自然観を肌身に沁みこませているのであろうか。神を信じないからか。汎神論的に自然を感じてきたからか。

 異常が平常に感じられるようになった臨界点を生きる孫たちはたいへんだろうか。案外、亜熱帯の気候に「恵まれ」て、違った自然のもとに適応して、快適さを維持しているのだろうか。

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