2018年8月12日日曜日

迷惑をかける/かけない


 「やっぱり、迷惑を掛けたくないって思いますからね」と話すのはAさん。私は「なに言ってんですか。迷惑をかけるなあと、負担に思ってもらいたいんですよ、私は」と返したのだが、果たしてそれで良かったのかどうか。日を追うごとに私の応対は間違っているんじゃないかと思うようになってきた。いま、団地の交代制でやっている役員(理事)が、いくつかの事情でうまく回らなくなっている。その対応策の話しだ。


 一つは、高齢化。目が衰える。足腰も弱くなる。体が全般的に、ぎくしゃくということを聞かなくなる。頭も、ちかごろ流行りの認知症というわけでもないのに、あれこれ考えるのが面倒くさくなる。単純な事務作業ならできなくはないが、こみいった手続きや段取りが必要なプランニングは、取りかかる気にならない。病気というほどでなくても、あちこちに不具合が出来するようになると、ものごとに前向きに向き合うことがむつかしい。そういうわけで、役員になっても「迷惑をかける」ことになるから、できるなら外してほしいと思う。

 もう一つは、築29年目となると、最初に入居した方々が代替わりしたり、(何年か海外や)遠方へ転出したりして、空き家になる。賃貸に出したりしているものは、「所有者」という役員の必要条件が満たされない。不動産屋が管理したりしていると、「居住者」が条件になっている役員は、輪番が回ってきてもお役目が務まらない。順番を飛ばすことになるから、居住者数からいうと十年か九年に一回のお役目が八年とか七年に一回、まわってきたりして、「不公平だ」と思うようになる。

 この「不公平だ」というのは、なにを規準にして「公平//不公平」と言っているのかわからない。たぶん(不都合がなければ十年か九年に一回)と比較して感じていることだろう。だが、輪番の最初だった人は今年が4回目の役員だのに、大半は3回目の人たちだから、七、八年になったからと言って、大声で言い立てるほどではないだろう。回数というよりはむしろ、勝手に不在となった人たちの肩代わりをしている「かんけい」とか、現にそこに居住していながら「所有者」ではないことによって免責されている「かんけい」の人たちがいることが我慢できないと言ったほうがいいかもしれない。

 Aさんは「迷惑を掛けたくない」というが、空き家にしている人たちや賃貸に出している大家の人たちは「迷惑をかけている」と思っているだろうか。管理組合の規定に(役員は)「居住している所有者」とあるから「役員ができないだけ」と考えていれば、「迷惑をかけている」とはつゆほども思っていないであろう。仕組みがあるから「負担」を感じないで済んでいる。私は、この人たちに「負担」を感じてもらいたいと思っているから、居住しなくなった所有者は、居住する方を代理人にして「役目」を果たしてもらうように「規約改正」をしたらどうかと提案したのであった。誰かに自分が不在の代わりをしてもらうということは、頼む本人が「負担」に感じる(べき)ことだと、私は思っている。

 だがAさんはじぶんの身体が自由が利かなくなったときに、ご近所の誰かに代理を頼むことは「迷惑をかける」と「負担」に思っている。つまり、「規約」の制約のために役員を務められないのは「負担」に思わないのに、身体の自在が利かないために役員が務められないのは「負担」に感じる。それを取り違えて、「負担に感じてもらいたい」と私がいうのは、間違いではないか。

 Aさんの「迷惑をかける」はご近所の顔見知りの方々とか、将来(一緒に役員をすることになって)顔見知りになるであろう方々に、迷惑を掛けたくないという意味であろう。これで思い出すのだが、人はおおむね150人の人と親しい関係を持つことができるという社会学者の「定説」だ。それが「一生の間に」なのか、今現在なのかよく確かめていなかったが、Aさんが「迷惑をかける」という範囲は、ご近所さん、同じ団地のよく知る人、ご自分の親族、じぶんの社会的ネットワークにつながる「知り合い」たちのことであろう。共同生活をしているという「かかわり」の範囲で、できるだけ迷惑をかけないで暮らしていきたいというのは、なかなかムツカシイ願いであるが、その気持ちはよくわかる。その願いを聞き入れないでは、「提案」は受け入れられるはずがない。

 考えてみると、都会生活の快適さは「放っておかれる自由」であった。でも(どんなときでも)「かかわらないでいてほしい」というのとはちょっと違う。必要な時は「かかわって」もらう必要はある。でも「(ご近所に)扶けてもらう」というのは、心的負担が大きい。それが一方的贈与だからだ。贈与はいつかどこかで返さなければならない互酬性とセットになっているから、相見互いとして受け入れることができる。都会生活は、旧来の共同体的関係でおこなわれていた「贈与互酬」を、市場を通す「交換」によって金銭を支払って済ませるようにして、ドライに営んできた。

 その方法は二通りあった。
(1)公共的な社会システムとして、相互扶助関係を整える。団地の役員の自主管理的な仕組みは、それにあたる。この輪番制がうまく回らなくなっているのだ。
(2)市場に任せ、金銭を払ってサービスの提供を受ける。

 じつはもうひとつ、かつてあった「共同性の復活」があった。だがこれは、都会生活の快適に馴染んだ人たちには、もう通じない。私の「提案」は、所有者でありながら居住者でなくなる管理組合員に対する(1)の仕組みの改変であった。Aさんの「迷惑をかけたくない」は、現住者でありながら思うように活動できない管理組合員の願いであった。この二つを分けて考える必要があった。上記の(1)と(2)の間の名案はないものか。目下の大きな「課題」だ。

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