2018年8月24日金曜日

見えない世界のぶつかり合い


 マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書、2018年)を読みはじめた。この著者は1980年生まれのボン大学教授。今風に言うと、アラフォーの哲学者。新たに哲学を考えるとして、本書を著したと意気込みを語る。これまで幾多の哲学書を読んだが、「哲学を哲学(勉強)する」ものが多く、それはそれで、なるほどカントはそういうことを言っていたのかとか、現象学ってそういうことだったのかと、リライトされた物語を読むような気持がしていたものだ。「哲学する」こと、言葉を換えて言うと、ものごとを自らに引き寄せて考えることはエッセイのような形で提示されるものが多かったと思う。このアラフォーの研究者は、それに正面から挑んでいる。


 世界は存在するかという、本の表題にかかわる問いから始める。存在するとは意味の場に立ち現れることと定義して、世界はひとつかと問いの視覚をずらす。上に記した「哲学を哲学(勉強)する」というリライトされたものを読むときの気分は、「世界はひとつ」という無意識の前提にたっていることだと気づく。客観的だとか科学的だという言い方で、観ているものの立場をそぎ落として語る第三者的語り口は、それ自体が超越的な立ち位置がある(かのように)と前提しているのだ。

 ここで私がいう「それ自体が(もつ)立場」をマルクス・ガブリエルは「性質の担い手=実体」と規定して、デカルト、ライプニッツ、スピノザの交わした論争を簡単に、次の三つに整理する。

1、一元論(スピノザ)たった一つの実体だけが存在する。
2、二元論(デカルト)考える実体:精神と物質的な延長実体:身体という異なる二つの実態が存在
3、多元論(ライプニッツ)数多くの実体が存在する。
 
  「世界は存在しない」というマルクス・ガブリエルは「3」である。つまり、意味の立ち現れる場は人の数ほど異なる。重なり合っているところも多いから、ニュアンスの違いを含みながらも、言葉が通用する。私も、「3」に近いとは思うが、「1」にも近いのかなあと思う。というのは、「3」の数多くの「世界」を全部合わせたものを「混沌の海」とみる立場があるからだ。それは誰が見ているのかと問われると、「わからない」。でも「わからない」ものとか「わかるかわからないかもわからない」ことがあるという「無明」という観念を、仏教思想を通じて、いつしか私たちは身につけている。自らを卑小な存在とみるとみえてくる世界だ。そう思うから、本書の著者に簡単に同調するわけにもいかないが、ヨーロッパ哲学が東洋思想と混淆し始めていることを実感する。

 ただ「3」だと思うから、畏れを知らず、わが身の裡を振り返り、思念をまとめる。と同時に、私はなぜそれを、そう感じ、そう思うのか、その根拠をつねに問いかけて、他人とかわす言葉の微細な違いが、なぜ、なにを意味している違いなのかに、心を止める。その私自身の思索の傾きの足場を、この著者が指摘している点だけは、得心している。

 本書は「自然科学の世界像」「宗教の意味」「芸術の意味」などにも触れて、この年になるまで私の触れてきた「世界」と交錯する論述をしていて、面白かった。

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