2018年8月11日土曜日
「かんけい」を見極める視線
日大のチアダンス部のパワハラが問題になっている。これは、これまでとりあげられたレスリングやアメフト、ボクシングなどとはちょっと違うと思うのだが、報道のニュアンスは、ほぼ同じ。しかも、日大は早々と顧問を解雇してコトを始末しようとしている。なぜこれまでと違うと思うのか。
ちらちらと断片しか出ないから、「違うと思う」という程度にしか言えないのだが、訴えているチア部員の振る舞いを耳にすると、かなりわがまま勝手であったようにみえる。むろんそれに対する顧問の言動にはひどいものがあったかもしれないが、他のチア部員の同調がないことも、質の違いを示しているように思う。力がありながら自分勝手な振る舞いをする部員
は、どこの世界にもいる。鼻高々でリーダー然と振る舞いはじめると、他の部員には手の施しようがない。見かねて顧問が注意しようものなら、「何で私だけに」と反発する。力があるだけに、テクニカルな注意はできず、言動の子細を取り上げるか、それらを包括して性格や人格を否定するような表現をとるか。こうして、当の部員にとっては、パワハラが為されていると受け止められ、顧問という立場があるだけに「パワ」には相違なく、外から指摘されると、「指導」と言い逃れても「パワ」を認めるほかない事態になる。今そんなふうになっているように思った。
チア部員の振る舞いの子細を報道しないのは、彼女が学生だからだ。つまりまだ修業途上にあるから、その報道によって彼女の将来を損なってはならないという理屈が底流しているのであろう。他方顧問は、すでに一人前であるからいくら指弾されても、構うことはない。そんな「倫理感」が報道現場の人たちに通流していると思える。この非対称性を認知していないと、コトの真偽を見極めるときに(相互の、あるいは集団における複数の互いの)「かんけい」を見て取ることはできない。喉につっかえた骨のようになったまま、報道は次へ次へと移り変わる。
そんなことを思っていたら、昨日(8/10)のNHK「クローズアップ現代」で「▽暴力に無抵抗な教師いま学校現場で何が」と「問題提起」がなされていた。
「いきなり後ろから小2児童がバットで教師を殴る」
「中学生が女子教師の注意を不満として暴力をふるう」
「(中学や高校で)生徒が教師に暴力をふるい、教師は無抵抗」
と、酷い出来事を綴り、つづけて、
「校長は(学校の評判を落としたくないから、あるいは校長自身の評価が下がると)暴力を振るわれた教師の件をとりあげない」
などと、三十年以上前の「校内暴力」に似た事態が頻発していると報じている。これは最悪の事態だ。またそれを知った親たちが、
「そんな暴力事件が起きている学校へ自分の子どもは行かせたくない」
と、まるで見当違いの反応をしているのも気になった。つまり自分の子(が通っている学校)はそのような暴力沙汰とは関係がないと言っているようで、これじゃあ臭いものに蓋という校長の「対応」と相見互いだ。これって、ことなかれっていうこと? 日本の社会的体質なの?
30年前と違うのは、教師が「体罰をふるう」というのと違い、「無抵抗」というところ。これらもまた、断片が報じられているだけだから、それぞれの出来事についてどうこういうことができないが、児童や生徒が暴力をふるうのをやめさせる手は、学校がシステムとして「教師への暴力」に毅然と対処する以外にない。番組では「警察をすぐ呼べ」などと言っているが、生徒が教師の胸ぐらをつかんだり、壁に押し付けたりしたくらいで警察を呼ぶとしたら、もう生徒への指導は行えないと自己宣告するようなものだ。「システムとして対応する」とは、些細な暴力事案でも、当事者である担任ばかりでなく、生活指導部や管理職もかかわって「応対」するということ。当然、保護者も呼んでなぜこうしたことが起きたかを(できるだけ)明らかにし、その素因と思われる複数のことごとすべてに、どう対応したらいいかを考えて向き合うことだ。ときには警察沙汰にしなければならないこともあるが、そうでもしなければ、教育機関としての学校は機能しない。
小2児童にバットで殴られた教師だったか、中学生に注意をしたら殴られた女教師だったかは、校長が(生徒はお客様、保護者は神様だ)という趣旨のことを言って、(教室のことは教室で、自分で始末しなさい)と突き放したそうだ。つまり「無抵抗」どころか、その「事案」がなかったかのような応対をしたというが、そうした(管理職の)振る舞いが横行する限り、児童や生徒の教師に対する暴力事案は減りもしない。つまり教師に「力をふるうこと」を禁じておいて、それに見合うシステム的保障をしないというのは、学校が制度として大きな欠陥を抱えたまんま、いかにも一人前の構えをして振る舞っているってことではないのか。呆れたね。
日頃私たちは、世の中の断片にしか接していない。だが、断片から(推して)全体を見通すには、「かんけい」を見極める視線をもたなければならない。報道も、その視線を獲得してこそ、社会の木鐸としての役割を果たせるんではなかろうか。
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