2019年4月1日月曜日
無明
井筒俊彦の『意識の形而上学』(中公文庫、2001年。初出1993年)を読んでいて「無明」について次のように触れているところがあって、想い出すことがあった。
《一見、「真如」とは正反対の、いわゆる「無明(むみょう)」(=妄念)的事態も、存在論的には「真如」そのものにほかならないのだ。》
もう5、6年前になる。私がコーディネートしているseminarで、(そのころ)僧侶の修業をしていた女の方、Kさんに講師を務めていただいた。義母がなくなり、その葬儀の折に触れた浄土真宗の僧侶の話を聞いて弟子入りし、仏教修業をはじめたというその方が講師となって、「私の仏道修行」というお題でお話ししてもらった。その席上のやりとりが般若心経にいいおよび、私が「わけのわからない混沌の世界」という意味合いで「無明」という言葉を遣ったら、「それは(意味合いが)違う」と返され、では、どういう意味合い? と訊ねたら、どういったものか言いよどんで、そのままになってしまったことがあった。仏教世界ではどういう使い方をしているのだろうと、ずうっと気になっていた。それに対する回答を井筒のことばに見つけたと思った。
もしそのときKさんが、井筒のように「無明=妄念」と応えていたら、どこに足場を置いて「妄念」というのかと、やりとりはつづいたと、いま思う。妄念というのを正しくない思念とKさんが考えているようであったからだ。では、井筒は、どうみているか。
《いわゆる「無明(むみょう)」(=妄念)的事態も、存在論的には「真如」そのものにほかならない》ということは、「無明=妄念」をも「真如」の一つとみている。般若心経に謂う「無明もなければ、無明が尽きることもない」。そう言えるのは井筒が、次の一節に謂う如く、「真如(一切の存在の普遍的な姿)」を動態的にとらえているからだ。
《「真如」は第一義的には、無限宇宙に充満する存在エネルギー、存在発発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である。》
つまり「普遍的な姿」という想定事態をも、本源的には「無」とみてとり、非顕現とする「空」と観ている。つまり私が「わたし」の視線で見た「わからない混沌の世界」も、存在論的には「真如」そのものにほかならない。そういう、価値的にみる善悪を超越した動的な「普遍性」や「真実」こそが、二項対立的な欧米的価値意識をも吸収して提示される一元論=汎神論ではないか。
そうやって考えてみると、井筒俊彦の試みていることは、唯一神とか汎神論といって対立的にやり合ってきた世界宗教の論点を、その根源において統一的にとらえ返そうとする、壮大な哲学的挑戦ではないかと思えてくる。そうして、仏教の教説がある意味では、宗教的ではなく、ことばによって解き明かし、遠近法的消失点にある「無」や「空」を(「わかり得ない世界」という)視点において、あらゆることごとの存在をとらえようとする、超越的言説になるのではないかと思った。妄念という無明的事態という個別性をも、存在論的には「真如」にほかならないとみる見方こそ、「絶対矛盾的自己同一」と呼ばれた現実存在の動的自己意識なのである。
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