2019年7月2日火曜日
移民国家の優れた文化を垣間見る
フレデリック・ワイズマン監督『ニューヨーク公共図書館エクス・リブリス』(原題はEx-Libris The New York Public Libraly。2017年)を観た。3時間25分に及ぶドキュメンタリー映画。
この映画のかかることが分かったときカミサンは「どうしよう」と珍しく私に相談した。あまりに長くて、観る自信がなかったのだ。(観よう、観よう)と私は前傾姿勢。なんでも見てみなければ、身の裡に感懐が湧かない。何もしないとほとんど無の境地に落ち着いてしまって、ボーっとして過ごしてしまう。体力的な非力は「あぶない」わけではない。でも、朝10時から14時ころまでというのは、くたびれるだろうと思った。年を取ると、動きが鈍くなる。早め早めに身を起こす。そこで、開始時刻より30分も前に会場に着いてしまった。
驚いた。当日券のチケットを買う人たちが、地下鉄の階段を上がったところから列をなして並んでいる。私たちは前売り券をもっていたから、すり抜けて10階の会場へ行ったが、座席について本を読んで待つうちに、隅から隅まで満席になってしまった。帰りにみると、パイプ椅子まで出している。なんでこんなに評判がいいんだ? と初めいぶかしく思ったが、あっ、と気が付いた。この日(7/1)は、月曜日。図書館がお休みの日だ。つまり、Ex-Libris(行政図書館)に関係する人たちが、「世界でもっとも有名な図書館のひとつ その舞台裏へ」というキャッチコピーにひかれて押し掛けたのではないか。関東一円の図書館関係者が集まれば、それだけでこの会場は満杯になる、と。ほんとにそうかどうかはわからない。図書館好きは、司書や書店員や図書館ボランティアばかりではない。私なども、図書館フリークというか、図書館を外部頭脳として使っている、本の虫のうちの一匹だ。
映画がはじまって(途中10分のトイレ休憩を挟んで)終わるまでの間、眠りもせず、画面のやりとりに観入り、聞き入った。面白かった。観ながらひとつ思い浮かんだのは、昨日のこの欄の最後に書き記したこと――ぼちぼち本気で「多民族国家・日本」をイメージできるようにしていかないと、ならないのかもしれない――であった。多民族国家・日本というのは、移民国家・日本でもある。いまのように、特殊技能を持ち、日本の経済社会に役立つ人たちには開放するというような偏狭な視点ではなく、日本に住みたいという人たちはそれだけで歓迎するというスタンスの社会イメージ(国家イメージではない)。そういう社会の持つ文化の、あるべきモデルのような文化社会の展開が、動きとして見事に描かれていた。さすがアメリカ、と思ったものだ。
ニューヨーク公共図書館(NYPL)とはいうものの、分館や移動図書館(?)らしきものまで含まれている。本を収蔵しているというだけのものではない。講演会あり、演奏会あり、読書会もあれば、朗読と演劇と手話を取り混ぜて、コミュニケーションとは何だと考えさせてくれるパフォーマンスが、聾唖者向けばかりでないこととして設営される。詩人に対して「あなたの言葉は政治的な意図を織り込んでいるのか」と挑発的にインタビュアーが語り掛け、詩人が意図して政治的に使おうとするわけではないが、ことばが政治的であることとは切り離せないと、これも「政治的/非政治的」という領域を吹き飛ばしてしまう次元へと高められていく。高められていくと感じたのは、間違いなく私の受信機であるが、一つひとつのパフォーマンスが、ぐいぐいと私たちの日常用いていることばや立ち居振る舞いに食い込んでくる刺激をもつ。ああ、これが動的文化ってもんだと、私の身は受け止めている。
そうなのだ。NYPLやその分館の活動は、ニューヨークの文化そのものを広め、高め、深めて、洗練して行こうという意図を、参加している人々が共有している。そう確信できるような言葉が飛び交い、やり取りがなされ、見ている者の耳に、目に、飛び込んでくる。まさにコミュニティである。
簡略にいうと、こうも言えようか。サニブラウンの活躍を、日本人の云々と評するのは、陸上競技短距離走というステージの、記録にかこつけて、出自と国籍にこだわるものの見方である。つまり、その次元を抜け出せていない。ところがアメリカのNYPLというものの持つ文化の次元は、陸上競技短距離走のアスリートの動きそのものを見つめる目を体している。あるいはそれが広がり、人間の能力の伸長がどのように、進化や文化によって受け継がれ、訓練によって変化するかという人間の営み全般への「論題」として広がっていく舞台に立っている。せめてそのような舞台の端緒に立つような志を持たないで、民族や国籍や出自にこだわっていては、とうてい、多民族とまではいわなくとも、移民を受け入れた「くに」として将来日本をイメージすることなどできない。アメリカはとっくにそのステージに立つ文化を生み出しており、トランプ現象は、それに対する貧困層WASPなど旧白人勢力の巻き返しであるともいえる。
なるほど「知の殿堂」と謂われるに値する蔵書や資料(日本でいえば古文書にあたる)を収蔵した研究図書館を、専門家が利用している。専門家たちのディスカッションも繰り広げられる。若い人たちがどう利用すればいいかのレクチャーもしている。これは教育でもあり、同時に、図書館を広く活用する人々を増やしていくことにつながる。単に利用するだけでなく、何十年もかけて、「画像資料」を使いやすいように整理し、「動物や人の動き」という項目として整理し直す。それをデザイナーや画家や作家などが、引用して利用する。
デジタル時代とはいうが、ニューヨークの2/3の人々はデジタルの恩恵に浴していない。では利用できるように環境を整えようと、家庭での接続器を貸出す。デジタル図書をダウンロードして目を通すことができる機器の貸し出しを行う。そのレクチャーもまた、手取足取り丁寧に行っている。と同時に、人気の図書ばかりに気をとられていては、百年後に残すべき図書の収蔵に欠落をもたらす。そう考える視点も欠かせないと、図書館運営の人たちの間で協議が続く。たぶん、図書の購入や予算の配分も、「使途を定められた予算」以外は、彼ら図書館運営の人たちに任されているようだ。そうした自主管理的な自在さがあるから、余計に、利用する人たちの広まり(障碍者や経済的な貧困者、高齢者あるいはホームレスなどにいたるまで)を、文化的な向上という視点でみつめて構成し直すことで、さらに深まりを手に入れている。予算の6割を公費が占めるが、あとの4割は寄付によるというのも、日本では実現が難しいところだ。
ニューヨークのもつ文化的な刺激というのは、縦割り行政や人種的な差異の壁、宗教的な違いや政治的な差異を斥けるのではなく、目の前に据えて乗り越えていこうとする姿勢が、徹底していることだ。当然それについて廻る自己主張も、堂々としている。自己の出自や来歴を隠すことなく、どう組み込んでいけるかと言葉にする力強さ。それは日本で、わがまま勝手というイメージでみられる自己主張が、人がお互いを知る第一歩であると相互に承知してかかわりあっている土壌風土がある。それを、羨ましいと感じながら、これがアメリカ文化なのだと得心していた。
慎み深く控えめ、ひととの協調を優先する日本の文化では、とうてい追いつけない文化的な段差があると、感じさせるに十分な映画であった。
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