2019年7月3日水曜日
団地コミュニティの社会学的考察
去年の2月から今年の5月末まで、おおよそ1年4カ月の間、私が住まう団地管理組合の理事長を務めてきた。それまで住いのことなど見向きもしないできた。9年に1回まわってくる理事のお役目も、私より年長者がいることをいいことに、わりと坦々と務めることのできる、広報などのパートタイム的役割を選んで担当してきた。月一回の理事会のやりとり事項を「広報」するというふうに、てぎわよく、もう一人居る担当者と分担して。だから、管理組合全体のお役目を鳥瞰しながら理事の動きをコントロールするという(理事長がしている)日常業務には、とんと関心もなければ、縁もなかった。団地は、自由放任的な都市生活の心地よいねぐらであった。一緒に理事を務めた方のことも、それが終わるとすぐに忘れた。
ところが、理事長になってみると、管理組合が担っている全仕事が目に見える。署名捺印というだけでも、結構な数だし、そのすべてに「責任者」という重しがついている。契約する住宅管理会社の派遣事務職員がいるから、こまごましたことは構わないでいいのだが、通過していく書面の何であるかは、確認しておかないとならない。敷地の清掃や水質検査、ポンプ室の清掃など定期的な作業がずいぶんこまめに行われている。へえと感心する。
そこへもってきて、築後28年も経つために建物の劣化が進んでいる。人と同じだ。若いうちは放っておいても何の問題もないのに、年を取るとあちらが水漏れし、こちらの機能が停止し、個々の住戸にもいろいろと支障が起こる。上階から水が漏れてくる、どうしたらいいかと問い合わせも来る。隣の煙草を何とかやめさせてくれないか、ピアノの音がうるさいと苦情も出る。駐車場に業者のらしき車が止まっていて、出られないとも訴えてくる。自転車のサドルが盗まれた、放置自転車が置いてある、台風出来が倒れた、ゴミ捨て場に洗濯機が捨てられているなどなど、日常的な出来事がこんなにもあるのかと、驚く。
それらのことをその都度綴ってきた。お役目が終わるにあたって、それを「団地コミュニティ」という視点から見つめ直してみた。そして思う。管理組合の理事会というのは、団地コミュニティの神経系統のセンサーである。何がどう起こっているかを感知する昨日を持っている、と考えるようになった。理事長は、そのセンサーの駆動装置であり、集約装置であり、コントローラーである。いわば団地コミュニティという身体の皮膚であり、頭脳である。
修繕積立金の値上げとか駐車場料金の値上げとか、専用庭の使用料の改定とか、理事・役員交代制の改善検討といった「課題」をいくつも背負わされてスタートしたから、企画・立案・広報と説明会の開催、そして総会での承認と、手筈を踏んで片づけていった。そして気づいたのは、コミュニティの内実はすっかり蒸発気味。資産の保持と管理という側面だけに機能的に期待して、お気楽に過ごす人々の、なんと多いことか。わが身のそれまでを忘れて、驚いている。それは同時に、日本の社会が高度消費社会という快適空間が、人びとの「かんけい」から奪い去ったものが、どれほど多大な「心情」であったかを、明白に見せるものであった。人々は、すっかり「おんぶにだっこ」、でも、言いたいことは言わせてもらうわと謂わんばかりであった。いざとなれば逃げだせばいいと思っているのかもしれないが、逃げていく先は、サ高住というわけにはいくまい。
もっと抽象化して取り出してみても良かったのだが、そうしてみると、面白くもなんともない。それよりは、一つひとつの事象が、そのままである姿にこそ、モンダイがあるととらえてみようと考えた。それが「社会学的考察」というわけだ。
まとめてみたら、A4判で81ページになった。400字詰め原稿用紙で約320枚ほど。それを二段組みにして72ページにまとめ、理事・役員交代制についての提起を、子細に引き継ぐためと称して、印刷してもらい、昨年と今年の正副理事長に配った。これをネタにして、9月のSeminarでとりあげてもいいかなと思いはじめている。ま、それはぼちぼち、のちほど。
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