2019年7月22日月曜日

正面からモンダイに向き合う


 7/20(朝日新聞)の立岩真也の「やまゆり園事件から3年」にまつわる「読書欄」の論述が、まことに真摯で面白い。3年前に置きた相模原市の障碍者施設で46人が殺傷される事件が起こってから、「生きる価値がある/ない」というモンダイにどう向き合うのか、突きつけられてきていると、率直に受け止めている。


 問い方がいい。やまゆり園事件に「ほかの本も含め、皆とても怒り悲しんでいる。しかし私はなにか「引けている」感じがした」と 自らの感受を提示し、「不可思議な基準で生きて良い人/死ぬべき人を分けるのはなぜか言ってみろと詰問し強く「圧」をかければよいと思った」とやはり自らの思いを言葉にする。これは、この文章を読む者に対して、(おまえさんはどう受け止めたのかい?)と問う力を持つ。

 立岩真也はさらに、自答の水路を提示する。
「本を読んで理解可能な理由は一つだ。つまりある人たちを生かしていくと社会はやっていけないと 被告は思っている。それは自明の出発点になっていて今も取り下げていない」
 (それにどう応えるのか)と「論題」の出立点を明快にする。論理的にいうと、
 「もしその認識が当たっているなら、辛くとも皆が死ぬまで互いに生きていくしかないのだという少し高級な「倫理」を語る必要があるかもしれない。だが、もし当たっていないなら、被告が人を殺してよいとする理由は、なにもなくなる」
 と、被告が抱いた感懐が単なる「妄信」ではなく、じつは社会的な共通感覚の背景をもっていることへと視線を導く。その社会的な背景感覚が、時間にかかわる「本」の陳述のなかにみられる、と。そしてさらに、そのモンダイを
 「昔のナチスの話だけでなく今の政治・経済を分析することがこの出来事に対して報道・言論がすべき大きな一つだと思う」
 と、展開の場を広げている。

 立岩真也の提示する上記の三つの論点が、いずれも次元を異にして、読む者への問いかけになる。
 「論題」の出立点をわが身に問うと、(生かしていく)「ある人たち」が障碍者だけではないことに気づく。被告にとっては(そこに勤めていたこともあって)障碍者が焦点化されたのであろうが、例えばトランプが反対派の議員などに「(アメリカから)出ていけばいい」と罵ったことも、それと同じ類の反応である。わが身に問うと(かなり飛躍して)死刑囚やテロリストが思い浮かぶが、たぶん心性の根っこには同じ感性が底流していると思う。

 突き詰めると、自分と対立的違和感のある存在とでも言おうか。もう少し細かく言うと、共存的関係を取り結んでいない対立的違和感のある存在である。自分と異なる存在は、いくらでもいる。対立的違和感のある存在は、身に危険を及ぼす恐れを感じさせる人たちだが、被告がその心中でやまゆり園の人たちを焦点化したのは、日常的に頻繁な仕事としての接触を通じて「対立的違和感」が煮詰まってしまったからであろう。とすると、「妄信」がどのように育まれ、どう発露するのかは、最近の京アニ放火犯のことをふくめて、みておかねばならないと思う。つまり、「妄信」がその事件の原因ではなく、被告の置かれた「社会的な不遇」が「妄信」を事件へと駆り立てたのではないか。

 そこに「社会的な共通感覚」としての「わたし」が立ち現れる。
 立岩真也の指摘する「今は暗く未来はなお暗いという認識」が、たぶん私のいう「社会的不遇」なのであろうが、前者が「妄信」に直結する観念の次元であるのに対して、後者は「妄信」を発露させる「関係(構造)」の次元である。私は、後者の「かんけい」において論じることが「社会的な共通感覚」に媒介項をおいて考えていく道筋に必要なことではないかと思う。「妄信」はだれもが抱く。それを「高級な「倫理」を説いて」制止することは、啓蒙的な要素をふくめて無謀とも思える。だが、「社会的な不遇」を当事者の感覚において軽減する「かんけい」は、具体的な「しゃかい」という場において対応することができる「施策」にすることができる。

 「社会的な不遇」に対する認知を社会のコミュニティ的要素に組み込むことだ。そういう「不遇」があることをまず認知し、彼らがそのような(仕事を通じてでも障碍者を焦点化するような妄信へと行き着く)処遇を受けていることへの共感と同情を「社会的に」持つことである。いま彼らは、ことごとく捨て置かれている。それは近代的市民の自立精神を説くことはしても、そうは生きられない人たちが必然的に排出されることへの認識が得られなかったことだ。

 そういう意味で言えば、障碍者も、事件に至る被告たちの存在も、同じように「社会的な不遇をかこつ存在」として存在している。「妄信」は持っているがその発露にまでは至らない私たちと、明快な線引きできる違いはない。「「生きる価値」の大切さ」というとき、個人の観念のモンダイと指摘しているように思える。だがそうではない。社会的な認知、つまり、自分が社会に包摂されているという実存感覚が欠け落ちているのだ。その意味で、孤立している。もちろん一般的に孤立が悪いわけではないが、孤立を好ましく思っていない人が無視されるように孤立しているのは、「社会的に必要なコミュニティ性」が欠落しているからではないか。

 もし立岩真也の指摘する第三点に持ち込むなら、まさに昔のナチスの話ではないのである。いままさに現代政治や経済を通して構成されてくる社会関係の中で、「社会的な不遇」を包摂する視線が欠け落ち、近代的市民としての自立が称揚されていく中の、報道・言論のはたしている「社会的共通感覚」こそが、問われているのである。それはたぶん、「人権」とか「生命の尊重」といった観念的なことではなく、コミュニティの持つ具体的な人と人との「かんけい」を、再確認して構成していく、実際的なアクションであると思われる。そういう意味で、この記事を掲載した朝日新聞の見出しは、間違えている。

 「「生きる価値」の大切さ問う」というのは、観念的なモンダイにとどめている。そこにとどまる限り、立岩真也の真摯なモンダイ提起に見合う、報道・言論の応対にはなっていない。つまり朝日新聞は立岩真也の提起を、わがコトとして、いまだ受けとめていないのである。そこから、やり直さなければならないのではないか。

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