2019年7月18日木曜日
身の裡の他者
井上荒野『ほろびぬ姫』(新潮社、2013年)は、仕立てが面白い。
「あなたはあなたが連れてきた」とはじまるこの作品、最後まであなたと「あなた」が併存し、「わたし」のなかの葛藤となる。あなたは「わたし」の夫。もうひとりの「あなた」は夫の双子の弟という想定。あなたがなぜ「あなた」を連れてきたのか、だんだんとわかってくる。だが、「あなた」がどこで何をしている何者なのかは、わからない。ここでは、あなたと「あなた」と括弧でくくって分別したが、作品中ではすべて、括弧抜きで記されているから、なんだこれは? ととまどいながら読みすすめる。
そうしてあるところで、ああ、これは、語り手である主人公の「せかい」だと受けとめたところで、物語りのステージが出来上がった。死期の迫った夫、その夫への思慕、と同時に身の裡に収まり切れない夫との性愛の身体感覚、そこへ介入してくる「あなた」という違和感。夫と全く異なる立ち居振る舞いのセンスに嫌悪感をもちながら、しかし、だんだん馴染んでくる「わたし」の日常性は、夫という一人の人物に対する「わたし」の思慕という信頼感のベースに生じる亀裂であり、「わたし」が抱く夫への信頼感は何であったかと自らに問いかける転機でもある。
つまり私たちは、平々凡々たる日常のなかで、自らの抱懐する感覚に疑問を持つことなく、そこを出立点にして「かんけい」を取り結んでいる。だが井上荒野は、そのなかに他者を登場させることによって「わたし」が深まっていくことを試みているとは言えまいか。優しく思いやりがあって道徳的な夫が、その内面に不作法で暴力的な(弟のような)要素を潜めているという見立てをすることで、「わたし」自身が、他人(ひと)の何をみているのかを解き明かしていく。
神を失った私たち、あるいは絶対神をもたない私たちは、わが身の裡に超越的な他者を囲いきれない。唯一、わが身の裡に錘鉛を降ろすことによって、身の裡に他者を生ぜしめ、それとの自問自答を繰り返しながら、わが身を相対化していくことで、「せかい」を広め深めていく。そうしていく以外に「わたし」の輪郭を描き出し、「(わが)せかい」を外に向かって開放する手だてはないと考えて、井上荒野がこの作品を仕立てた。そう私は受け止めて、読みすすめた。
果たして「ほろびぬ姫」になれたのか、あるいは、反転して「ほろびぬ姫」に確執を醸すか。それは読む者が井上荒野の見立てに対して、どう異議申し立てをするかにかかっているように思える。
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